逆らう者は「串刺し」にしたヴラド3世の残忍な生涯
ヴラド3世(1431〜1476)は、15世紀のルーマニア南部に存在したワラキア公国の君主です。
父は通称・ドラクル(ドラゴン公)として知られたヴラド2世で、1436年からワラキア公を務めていました。
そのため、その息子のヴラド3世はのちに「ドラクル(ヴラド2世)の子供」という意味を持つ「ドラキュラ公」の通称で有名になります。
現代では吸血鬼の代名詞のようになっているドラキュラの本来がドラゴンの子供なのは意外に思う人もいるかもしれません。
ただ当時、キリスト教では悪魔がヘビやドラゴンとして描かれており、ドラゴンと悪魔は同一視される傾向にありました。
そのためドラクルは「悪魔公」と解釈され、さらに息子であるヴラド3世も「悪魔の子」という見方を人々からされています。
ブラム・ストーカーが自身の小説の吸血鬼にドラキュラの名前を与えたのも、この悪魔の子のイメージがあったことが理由の一つです。
ここまでの説明だとヴラド3世が悪魔の子と呼ばれるのは誹謗中傷に聞こえますが、もちろん彼には、ちゃんと「悪魔の子」と呼ばれるだけの残忍さがありました。
彼がワラキア公を務めた1448~1476年の間、ワラキア公国はオスマン帝国と対立関係にありました。
1462年のトゥルゴヴィシュテの戦いで彼は、約2万人の敵兵がいる陣地に夜襲をかけて全員を串刺しの刑に処して殺害します。
オスマン帝国のメフメト2世はその串刺しの山を目にして戦意を喪失し、ワラキアから撤退したという。
この事件をきっかけにヴラド3世は「串刺し公」とも呼ばれるようになりました。
日本で彼はヴラド・ツェペシュと呼ばれますが、このツェペシュはルーマニア語で「串刺しにする者」の意です。
また串刺し刑は当時のキリスト教圏で最も卑しい刑罰に当たり、あくまで重罪を犯した農民に限られて行われるものでした。
ところがヴラド3世は自らの権威の絶対性を誇示するために、農民も兵士も貴族も見境なく、逆らう者は誰でも串刺しに処したのです。
他にも彼は有力貴族をパーティーに招待して酒宴を開き、油断したところを皆殺しにしたり、病気の流行を止めるためと称して、罪なき貧者や病人、ジプシーを建物に閉じ込めて放火したと伝えられています。
一説によると、ヴラド3世は生涯に8万人以上の命を奪い、その多くが串刺し刑で殺害されたという。
彼自身は1476年にオスマン帝国との戦いで戦死したか、あるいは敵対するワラキア貴族による暗殺で死んだと言われています。
彼の血塗られた人生は、まさにドラキュラのモデルとしては打ってつけだったでしょう。
そして今回、カターニア大の研究で、ヴラド3世の血に呪われた一面があったことが新たに示されたのです。