象を持て余した江戸幕府
吉宗は象の世話を何度かし、象使いの仕事ぶりを観察し、自ら餌を与えることさえありました。
しかし当時は吉宗直々に行っていた享保の改革の最中であり、幕政でも様々なコストカット策が練られていたのです。
象を飼育するのには食費などで多額の費用がかかるということもあり、やがて幕府は象にかかる費用に頭を悩ませるようになりました。
それでも象は13年間浜御殿(現在の浜離宮恩賜庭園)で飼育されたものの、成長に伴い費用がますます増えていったのです。
1741年4月、象は暴れて象使いを殺害し、それを受けて幕府はついに象を手放しました。
象は中野村(現在の東京都中野区)の農民に預けられ、その農民は象の見物を運営して金儲けを行いました。
象は日本において特別な注目を浴び、民衆は象を神聖な動物とみなし、象を見るだけで病気が治るとまで噂されていたのです。
しかし象に幕府で飼われているときのような満足な餌を与えることができなかったこともあって、徐々に象は弱っていき、遂に1742年12月に死亡します。
その後、皮は幕府が引き取り、頭の骨と象牙はその農民に譲渡されました。
その後も象の崇拝は続き、象の様子を描写した本や詩、象の糞を乾燥させたものを薬として販売するなど、象にまつわる物品は好評を博していました。
象が生きているうちだけではなく死んでからもそれを利用して金儲けをしているあたり、江戸時代の庶民のたくましさが窺えます。
わずか1年で日本語の指示を理解するようになった象
余談ですが、象は言語を理解できる動物と言われていることもあり、それ故調教も言葉を介して行われます。
この象はベトナムからやってきたということもあり、当初はベトナム語しか理解することができず、それゆえベトナム人が象を調教していました。
なお当時の日本人の中にベトナム語を理解できる人は皆無だったことから、当初日本人が象に何か指示を出すときは一旦中国語でベトナム人の通訳者の指示を出し、その通訳者が象を調教する人にベトナム語で指示を出してもらっていました。
しかし象は日本語への理解を深め、1年後には日本語の指示も理解できるようになったと言われています。
こういったところにも、象の知能の高さが窺えます。