反対運動も、最後の手段としては否定せず
このような学校内の体罰について、親たちは激しく反発していました。
親たちの中には子供が教師から厳しい鞭打ちを受けたことに対して、激しい抗議をするものもいたのです。
しかし当時の親たちは、学校内での体罰は否定しつつも、最終的には体罰を許容していました。
具体的には子どもが嘘をついたときや、子どもに対するコントロールを失うと親が判断した時には体罰を行っています。
当時の親たちは学校のような場所でまじめに勉強をしなかったり、トラブルを起こしたりしたときに体罰を用いることに反対していたのであって、決して完全な体罰反対派ではなかったことが窺えます。
このことは当時から「進歩的である」と捉えられていた教育者も例外ではなく、『幼児教育論』にて体罰を「人間を奴隷化するものだ」と激しく非難したエラスムスでさえ、「他のどんな教育法も効果がなく、鞭打ちによる体罰という最後の手段を行使しなければならない場合でも、できるだけ寛大で控えめにしなければならない」と述べており、裏を返せば体罰を最後の手段として行使することは否定していません。
そのようなこともあって学校教育の場から体罰が無くなることはなく、その後も続いていきました。
しかし1860年にイギリスのイーストボーンで教師の体罰により15歳の少年が命を落とす事件が起こると、流れは変わります。
この事件では言うことを聞かず血気盛んな少年に対して教師が縄やステッキで叩いたり、拳で殴ったりを繰り返したことにより、少年は命を落としてしまいました。
少年に対する体罰は親の許可を貰っての事だったということもあり、教師は自身の潔白を主張したものの、裁判所は教師の主張を退けて懲役4年の判決を下しました。
この事件はヴィクトリア朝時代のマスコミにセンセーショナルに報じられ、学校での体罰についての議論を引き起こしたのです。
この事件の後一般市民は体罰を禁止するように抗議を進めていましたが、教育界は体罰禁止への動きを断固として拒絶しました。
イギリスにおいて体罰が禁止されるようになったのは、これから約1世紀後の1948年です。
教育界の動きは実社会と比べてかなりスローペースであるとはよく言われていますが、こういったところにも動きの遅さが窺えます。
「悪しき」と云う表現は恣意的ではないですかね?
体罰とか暴力を無条件に悪にする方が悪しき考えだと思います。
何をどうあがいても現実においてその行為が加害である事からは逃れられないので悪しき事です
せめて、仮に最大限に譲歩したらば、悪に悪で対抗する必要があることもあると主張してもいいと表現の自由の下に認めます
そうだとしても悪が増えてるだけなので特に価値も意味も生まれないただの悪手だと思います