チャンネルを次々に切り替える行為は退屈レベルを高める
タム氏ら研究チームは、複数の実験を行いました。
最初の実験では、140人の参加者が面白い動画と退屈な動画の両方を見せられ、それらを自由に切り替えました。
その結果、参加者は退屈だと感じた時に、動画をより頻繁に切り替えると分かりました。
これは、人々が退屈を紛らわせるために、動画をスキップしたり切り換えたりすることを明らかにしています。
多くの人が、この目的と行為に共感することでしょう。
しかし、今回の研究では、この行為が期待とはまったく逆効果であると示されたのです。
チームは次に、159人の参加者を使い、「切り換えあり」条件と「切り換えなし」条件の2つで、動画コンテンツを楽しんでもらう実験を行いました。
すると、退屈なら動画を切り替えて良いとした参加者の間で、より高いレベルの退屈が報告されたのです。
また1つの動画だけを視聴する実験(シークバーで「スキップできる条件」と「スキップできない条件」に分かれる)でも、スキップする方が退屈レベルが増すという結果になりました。
私たちは退屈を紛らわせる目的で動画を次々と再生したり、スキップしたりしますが、この行為が、私たちを一層退屈にさせていたのです。
今回の研究では、「なぜチャンネルの切り替えが退屈を生じさせるのか」という部分を扱っていません。
それでもタム氏は、「動画を早送りしたり切り換えたりする行為は、視聴体験の満足度、魅力、意義を低下させます」と述べています。
また、そのようにしている自身の体験から、次のようにも述べています。
「私はコンテンツに本当に没頭したり、楽しんだりしていないことに気づきました。
ストーリーの詳細を見逃したり、ある動画から別の動画に切り替えるのに多くの時間を費やしたりすることがよくありました」
確かに提供されるコンテンツが少ない以前の時代では、私たちは、それぞれの動画を「映画館で1つの作品を楽しむ」時のように、集中して細部までじっくりと味わっていました。
実は、この楽しみ方が、私たちに満足感をもたらしていたのです。
このような問題が表面化するのは、無料のコンテンツが増えたということも関係しているかもしれません。
お金を出して買ったコンテンツなら、私たちは多少退屈でも辛抱強く最後まで楽しもうと努力するでしょう。しかし現代は多くの動画やゲームが無料で楽しめます。
また無料であるがゆえに、作り込みの甘いとりあえず作ってみたというコンテンツが溢れてしまっているのも、1つの作品に集中しづらくなっている原因かもしれません。
映画に関してもレンタルビデオ店に出かけていちいち借りていた時代なら、つまらない映画を借りて失敗したと思っても、とりあえず最後まで見たかもしれませんが、サブスクで大量の映画やドラマを次々に見られる現代では、退屈なシーンがあればすぐ他の作品に視聴を切り替えてしまう人もいるでしょう。
多少退屈に感じても1つの作品を最後まで楽しむという姿勢は、コンテンツが溢れる現代だからこそ、一層必要なのかもしれません。
私たちはついつい面白いものだけを効率的にどんどん消化していきたいという欲求に囚われ、つまらない作品に出会うと早々に視聴を切り上げて次に行こうと考えてしまいがちです。
しかし、人生を楽しくしたいなら、クソ映画に出会ってもどっしり腰を据えて最後まで視聴するくらいの余裕が必要なのかもしれません。
次にTVやYouTubeを視聴する時には、スマホとリモコンを手放して、コンテンツの内容に集中して見てはどうでしょうか。
それはたとえ退屈な内容だったとしても、日々の生活の中で最近味わっていなかった満足感を与えてくれるかもしれません。
YouTubeの広告の存在がこれに拍車をかけている。アンチ広告ブロックを廃止せよ。
本質を分かってなさそう
動画も見れないし文章も読めないのかい?ぼうや
織田信長キッショ
私は15年前から全ての映像コンテンツを倍速または3倍速で視聴しております。それは雑に消費するわけでは無く、結果同じコンテンツを等倍で消費している人と比べて2倍3倍の寿命を得ている事になるからです。寿命を伸ばしたいという生き物の根本の欲望を映像コンテンツを観ることにより充足させるという快感を得ております。
映像コンテンツという時間芸術において、「間」は命そのものです。
本の要約とかなら別に大丈夫ですが、全ての映像コンテンツで倍速となると、あなたはその何倍も損していますので、とても勿体無いです。
ニュースなどは倍速なのは分かる。
2倍速の後に等倍に戻したら特に。
お年寄りとか理解の遅い人向けにわざと遅く話してる。
あそこまで遅く話さないと理解が追いつかない人が多いんだ。
だけど、映画とかのコンテンツは、別の人も言ってるように「間」があるから、あらすじ読んだだけ、みたいな状態になってるよ、それ。
感情は咀嚼するのに時間がかかる。
だから無意味なシーンに見えてても、意図的に咀嚼の時間として設定されてる。(映画終わってなお咀嚼できないこともあるぐらい)
こういう見方してるやつに限って内容を理解してないよな。
飯も時間をかけて咀嚼した方が満腹度が高くなるのと似てるな
満腹中枢的ななにかがあるのかも?
クソ映画でも何がクソか語れる人がいることに対して、友達と話を合わせる為だけに利用される映画の価値は全く似て非なるものだと思ってる。サブスクで色んな音楽や映画に触れられる機会が増えたけど、私が映画館やライブに行く理由がこの記事に詰まってた。
確かに次々に切り替えていくと、何の印象も残らずただ時間だけが消費されていく感じがしますね。
逆になんかイマイチなコンテンツでも、最終的に「これはこれで」という感想に至ることもあります。
確かに、腰を据えて観ることは大切なのかもしれない。
自分で選択をすることが、幸せとも限らない。
本屋さんで偶然出会う本に似ている気がする。
自分で選ばずに、番組との出会いを楽しんでみるのも、良いということでしょうか。一見興味のないことでも、とりあえず観てみる。そんな余裕を失くしがちな私です。エンタメに効率を求め過ぎることは、楽しむ気持ちを失うということなのでしょうか。
アンダーマイニングやエンハンシングとも関連してる話だろうね
特定の何かに時間を割いたということ自体が価値を生んでいる可能性あると思う
選ぶ物が多すぎると、逆に幸福度が低くなると一緒かな?
ヒューマンDoingとヒューマンBeingの違いと同じ論理やな
面白えな。ここのコメントでの考察含めて。動画は何となく実感もあるし分かるけど、ネットでこうやっていろんな記事見るのはどうなんだろうか。新聞(記事の集合体)やオムニバス形式の本を読み続けるのと1つの本を読むのでも違いが出るんだろうか。
こういう記事も全部読まないで3分1だけ読んで次の記事読みに行ってる人がいると思うと理にかなってるよね
全部読んだからこそコメント欄で何か語れるし
次々に女を食いまくった経験からこの理論がいかに正しいかを実感できました
もっと味わえばよかったと後悔しております
時と場合によると思う。また、人にもよると思う。色々なニーズがあるし、退屈あっての面白さだと思う。音楽も自然も人生も、山場だけで構成されているわけではない。この論文も退屈を悪とするのが主旨ではないと思うし、これを題材に人々が議論を巻き起こし、様々なやり取りをすること自体が没入感を高め、わくわくする。新たな可能性や動きはこうやって生まれるのかもしれない。
と言うことは
人生もゆっくりとじっくりと味わって生きた方がより楽しめるのかな♪
娯楽でも集中力は大事
酔いながら見た動画とあとで改めて素面で見直した動画とじゃ楽しみの深み変わるから