生と死を超えた「第三の状態」
上の動画では、試験管の中を泳ぎ回る奇妙な存在が映されています。
顕微鏡を使ってさらに拡大すると、この存在がアメーバのような単細胞生物ではなく、多数の細胞から構成されていることがわかります。
この生物はいったい何でしょうか?
一見すると、どこかの池や沼から取ってきた微生物のように思えます。
現在、未知の生命の正体を調べるときには、遺伝子解析が主流となっています。
しかし、この存在のゲノムは既に判明しています。
それはホモ・サピエンスです。
この奇妙な存在のゲノムは100%人間で、遺伝子編集などは全く行われていません。
通常ならば、ホモサピエンスのゲノムが何を作るかは、言うまでもないでしょう。
多少の個人差はあっても、這いまわる小型の多細胞生物などでは「断じて」ないはずです。
しかし近年の研究では、生と死を超えた第3の状態に突入することで、ホモサピエンスのゲノムを持つ生物を、新たな多細胞生物へと変化させることが可能であることがわかってきました。
死のラインの曖昧さが加速している
生命システムにおいて、全体的な機能の喪失、つまり死が起きた後に何が起こるかは依然として多くが謎に包まれています。
生物が死ぬと体内のネットワークが機能しなくなり、時間をかけて徐々に全体の細胞が死んでいきます。
しかし体を構成する細胞の生存能力には差があり、全体としての「死」が起きた後も一部の細胞は長期に渡り生命活動を続けることが可能です。
たとえば人間の一部の脳細胞は、酸素なしで最大4時間以上生存できることが明らかにされています。
一般的な理解では酸素の供給が途絶して5分以上が経過すると蘇生できる可能性が急速に低下し、10分を過ぎるとほぼ絶望的と見なされます。
しかし蘇生が絶望的となり脳波が平たん化した後でも、実際には脳の中には生命活動を続ける脳細胞が少数ながら存在しているのです。
また臓器移植などの場合、ドナーの死亡後に「生きた臓器」が摘出され移植されますが、これも全体としての死と細胞や臓器の死のタイムラグによる結果となっています。
一般に考えられているような「死の瞬間」というものは、細胞レベルでは存在しないのです。
一方近年の研究では、生き残った個々の細胞たちを長期培養することで何が起こるかを調べる試みが、盛んに行われるようになりました。
生物としての死を迎えた体から取り出した生命の「燃えがら」に、どんな奇跡が起きたのでしょうか?
生と死を超え新たな多細胞生物になる
生命の「燃えがら」にどんな可能性が残されているのか?
謎を解明するため研究者たちは、生物を分解して取り出した細胞に対して、栄養、酸素、電気、化学物質の提供を行いました。
すると、取り出された細胞たちに、生でも死でもない第3の状態を引き起こせることがわかってきました。
たとえばカエルの胚を破壊し(この時点では細胞は生きているものの、元の生物は死んでいると言えます)皮膚細胞を分離して培養する研究では、皮膚細胞たちは時間が経過すると培養液という新たな環境に適応し「ゼノボット」と呼ばれる多細胞生物に自発的に変化することが判明しました。
さらにこのゼノボットは表面に繊毛をはやし、自由に泳ぎ始めます。
生きたカエルの胚では繊毛は通常粘液を流動させるために用いられますが、ゼノボットはその機能を遊泳能力へと転用したのです。
さらにゼノボットは独特の螺旋運動を繰り返すことで、まだバラバラの状態にある周りの単細胞たちの「まとめ上げ」を促進し、まとめ上げられた新たな塊もまた、ゼノボットに変化して泳ぎ始めることが判明しました。
このようなゼノボットの動きは新たな子孫を力技でこね上げることから、ある種の自己複製動作であると解釈されています。
神話の創造神が土をこねて人を作ったように、ゼノボットは細胞をこねて塊にすることで、新たなゼノボットを生み出したのです。
ゼノボットは高次の実体が死んでも、その細胞がまだ生きている場合に何が起こるかを調べるための貴重な材料と言えるでしょう
研究者たちはまた、人間の細胞でも同様の現象を確認しました。
人間の肺から切り取った細胞を培養するとゼノボットのように自己組織化を起こし、冒頭で紹介したように、動き回る小型の多細胞生物になることが発見されたのです。
研究者たちはこの新たな多細胞生物を「アンソロボット」と名付けました。
アンソロボットは100%人間と同じゲノムを持ちながら、脊椎動物ではなく粘菌のような形状をとります。
またアンソロボットは傷つけられたときには、自身の体を修復する自己修復機能も備え、さらに損傷したニューロン細胞をみつけると修復するという奇妙な性質がありました。
ゼノボットやアンソロボットの存在は、生命にはデフォルトの進化の終点とは異なる、全く新しい形状や機能の獲得が可能であることを示しています。
生物としての死や体の解体が起きても、新たな多細胞生命として存在できるという結果は、既存の生死の概念を揺るがす結果と言えるでしょう。
研究者たちはこのような状態を生でも死でもない第3の「何か新しいものへの変化」であると述べています。
これまでの研究によって、がん患者などから摘出された腫瘍細胞を何十年にもわたり培養したり、幹細胞から人工培養臓器「オルガノイド」を作ることに成功しています。
しかし、それらの細胞は、元々の生命が生きていた頃と機能を引き継ぐ形で存在しており、ゼノボットやアンソとボットのように、新たな機能を獲得しておらず、第3の状態とは言えないでしょう。
次のページでは、この概念を使った、論文著者による興味深い物語を紹介します。