世界の「蝗害」の歴史
パリピと化したバッタの大集団が大挙してやってきて農作物を食い尽くしてしまうことを「蝗害」と呼んでいます。一度やってくると防ぎようがなく、丸坊主になっていく作物を見ているしかない状態は、飢饉も引き起こすような大災害として、発生した国々で記録されてきました。
古くから文明が栄えた中国でも多くの記録が残されています。
殷の時代、甲骨文に記されたものがあるほか、漢の時代になると書物に細かく記されるようになりました。その後の南北朝から元、明にかけては、干ばつのあとでバッタが大発生したという泣き面に蜂のような記録も見られます。
清代になると記録が増えるうえ記述が細かくなり、農作物がバッタに食べられてしまった結果、人々の生活がどうなったかについても記述が具体的になり「蝗害の後、妻に売春させる男が増えた」というものまであります。
当時の人々はバッタのせいで深刻な貧困に陥っていたのです。
人々の状況だけでなく、その後バッタがどのように死んだかなど、防除の手がかりを探そうとする記述も見られます。
もちろん蝗害は中国だけで起きていたわけではありません。旧約聖書の『出エジプト記』にも蝗害の様子が記述されています。
また、地中海地域でもこうした蝗害が発生しており、オスマン帝国の時代、パレスチナで起きた蝗害の時には食糧危機が訪れ、成人男性に一人あたり20kgのバッタの卵を集めるよう命令が出されました。これ以上、バッタが増えないよう対策したのです。
ほかにも、アフガニスタンやイエメン、さらには北アメリカなど、地域に住むバッタが突然の大集団となって蝗害になっています。
中でも、2020年にアフリカを襲った蝗害は私たちの記憶に新しいところです。
アフリカ東部では非常事態宣言が出され、食糧危機が懸念されました。大集団となったバッタは各地へ広がり、ソマリアで大発生したバッタはケニアでは過去70年で最悪の規模となり、被害はエチオピア、ウガンダ、南スーダン、タンザニアにも及びました。
日本では明治時代に北海道で被害が出ています。入植地を襲うのはヒグマだけではありませんでした。バッタは人を襲わなくても集団で農作物を食い尽くし、食べるものがなくなって家々の障子紙まで齧ったと伝わります。
繁殖地で幼虫を駆除しても間に合わないほどの数のバッタが発生するというのは、ひとたび蝗害が起きれば飢饉になり、人々が貧困に陥ることなどから、どれほど恐ろしいことか想像がつくと思います。