60人の黒人奴隷が15年間にわたって置き去りに
プロビデンス号の大きさは元のリュティール号よりも遥かに小さく、長さ10.5メートル、幅3.9メートルしかありませんでした。
そこに生き残ったフランス人船員と黒人奴隷を全員のせることは物理的に不可能です。
ご想像の通り、カステランはフランス人船員123人を先に乗せ、「後から必ず戻ってくるから」とだけ言い残し、黒人奴隷を絶海の砂の孤島に置き去りにしました。
そうして船員たちは無事に自国へと帰還することができたのですが、カステランはあくまでも責任感の強い男だったのか、黒人奴隷を置き去りにしたことに良心の呵責を感じます。
そこで彼はフランス政府に「我々の脱出を助けてくれた黒人奴隷たちをなんとしても救出しなければならない」と嘆願します。
しかし当時のフランス政府は1756年から始まったイギリスとの七年戦争(1763年まで続く)を理由に「資金もないし、そんな暇はない」とこれを断りました。
それでもカステランは何度も政府に救出用の船を出すよう懇願を続けます。
この問答の繰り返しが延々と続く中で、時間だけがいたずらに過ぎていき、トロムラン島の難破からすでに8年が経っていました。
難破事故も忘れ去られようとしていた1773年、フランス海軍はようやくカステランの要請を聞き入れて、トロムラン島に救助船を派遣します。
ところがこの時の救助作業は島周辺の激しい荒波のせいで失敗。翌1774年にもう一度試みたものの、これも失敗。
トロムラン島はそれだけ自力で行くことが難しい海域にあったのです。
しかし1776年11月29日、若干25歳の若き船長ジャック=マリー・ブーダン・トロムラン(1751〜1798)の率いる船がついに島への上陸に成功します。
この時点でリュティール号の難破事故から実に15年が過ぎていました。
果たして生存者はいたのか?
いました!
人数は随分と減っていたものの、島には7人の女性と生後8カ月の赤ん坊が生き残っていたのです。
救助に向かった船員たちは「船で島に送ろう」と話しかけると、女性たちは特に表情を変えることなく、無言のままボートに乗り込んだと伝えられています。
その際、島を振り返ることもありませんでした。
女性たちの話によれば、島に取り残された最初の数カ月間で、過酷な環境と見捨てられたことへの絶望から多くの人が亡くなったという。
中には残っていた木材で小さな筏を作り、18人が島を脱出したといいますが、彼らの生死は不明です。
ただ島の周囲の荒波を筏で渡り切ることは難しいため、波に飲まれて命を落とした可能性が高いと見られます。
さらに島に残った40人ほどもその後の10年間で約半数にまで減ってしまいました。
そうしてトロムラン船長の救助隊が着く頃には、生存者が彼女たちだけになっていたのです。
この事件が当時のフランスで話題となり、セーブル島は救助に成功したトロムラン船長にちなんで「トロムラン島」へと改名されました。
ちなみに生還した女性たちがその後どうなったかというと。
フランス政府は彼女たちを自由人として宣言し、故郷のマダガスカル島に帰すことを提案しましたが、彼女たちはこれを拒みます。
マダガスカル島に戻れば、再び奴隷にされると考えたからです。そのため、彼女たちはフランス領内の島に残り、生涯を過ごしました。
これで事件自体は終幕を迎えますが、2006年になってパリ第4大学の考古学者マックス・ゲルー氏がトロムラン島に出向き、調査を行います。
それは「小さな砂の孤島で一体どうやって15年間も生き延びることができたのか」気になったからです。
そして調査の結果、置き去りにされた人々の真に勇敢な物語が200年以上を時を経て、浮かび上がってきたのです。