1761年、砂の孤島への漂流はなぜ起きたのか?
この漂流物語は今から250年以上前、1761年まで遡ります。
場所はアフリカ南東のマダガスカル島から東に約450キロの場所にある砂の島「トロムラン島」です。
トロムラン島は全長1700メートル、幅700メートル、総面積にして1平方キロ足らずの小さな小さな孤島。
島全体が平べったく、一番高い場所でも標高7〜8メートルしかなく、小さな灌木や背の低い草木がまばらに生えているだけの場所です。
こんな所に60人も置き去りにされるなんて、一体何があったのでしょうか?
事の発端はフランス人の船長だったジャン・ド・ラファルグにあります。
ラファルグは自身の金儲けのため、マダガスカル島へ船で立ち寄った際に黒人奴隷160人(男性の他に女性や子供もいた)を安く購入。
彼らをマダガスカル島からずっと東にあるモーリシャス島まで運んで、高値で売り渡す悪しき計画を立てたのです。
そしてラファルグは貨物船リュティール号(L’Utile)に黒人奴隷160人とフランス人船員141人を乗せて航海に出ました。
マダガスカル島から目的地までは直線航路にして約1000キロほどでしたが、当時この海域では奴隷貿易が禁止されていたため、見つかれば逮捕されてしまいます。
そこでラファルグは北に大きく迂回する山なりのルートを通って、監視網をかい潜ろうとしました。
しかしこれに異を唱えたのが船員たちです。
船員たちは山なりに迂回するルートが暴風の頻発する危険な海域であることを知っていました。
彼らはこの海域を通るのはやめるよう進言したのですが、金に目が眩んでいるラファルグはこれを頑として拒否。
操舵手は「航路を変えないと我々は眠れない」と訴えましたが、ラファルグは「それはお前らが無知なだけだ」と罵り、計画通りに航海を続行するよう命じたと、当時の船員の航海日誌に記されています。
そして1761年7月31日午後10時30分、船員たちの恐れていた事態が起きます。
暴風と荒波に呑み込まれたリュティール号は完全にコントロールを失い、暗礁に乗り上げて難破。
リュティール号の船体は真っ二つに割れ、船員たちは海に投げ出されたり、命からがら船にしがみつくなりしました。
そのとき、波間の向こうに陸地が現れます。
それが物語の舞台である「トロムラン島」だったのです。(当時の名称は「セーブル島」でしたが、今回のある出来事をきっかけに改名されます。その話はまた後で)
結局、フランス人船員のうち18人は溺死し、ラファルグを含む123人がトロムラン島に辿り着きました。
しかしもっと悲惨だったのは黒人奴隷たちの方です。
黒人奴隷たちは積み荷として船底の貨物室に閉じ込められていたため、難破によって海水が入り込み、ほぼ半数の72人が死亡してしまったのです。
トロムラン島に漂着した黒人奴隷は88人となっていました。
船員たちはラファルグに指揮を仰ごうとしましたが、当の本人は難破によって精神が崩壊したのか、魂が抜けて一言も口がきけない状態に陥っていたといいます。
そこでリュティール号の副司令官だったバルテルミー・カステランが全面的に指揮をとることになりました。
カステランはまず、船員の一部に島の掘削をさせて、水を掘り当て、そこに飲み水用の井戸を作ります。
他の船員にはリュティール号の残骸をできる限り集めさせて、仮住居としてのベースキャンプを設けました。
そして最大限の労力を注いだのが脱出用の船の建造です。
カステランはリュティール号の木材を再利用して、”神のご加護”を意味する脱出船「プロビデンス号」を作りました。
この作業には生き残った黒人奴隷も協力させられています。またその過酷な作業の過程で、黒人奴隷のうち28人が亡くなり、残りは60人となっていました。
2カ月に及ぶ作業の末、ついに脱出の日がやってきたのですが…