他の幕府と比べて圧倒的に弱かった室町幕府
日本史の区分上は鎌倉幕府と江戸幕府の間に室町幕府があるということもあり、室町時代のことを鎌倉時代や江戸時代のようにキッチリとした統治が行われていた時代と考える人もいるかもしれません。
しかし室町幕府は、他2つの幕府のようにキッチリとした統治を行っていた期間は非常に短く、そのほとんどが某漫画の世紀末世界のようでした。
室町幕府が成立した年は足利尊氏(あしかがたかうじ)が建武式目を制定した1336年、もしくは尊氏が征夷大将軍に任命された1338年と言われています。
しかし当時は様々な事情により朝廷が二つの系統に分かれており、その系統から交互に天皇が即位する慣習が取られていたのです。
やがてこの慣習は足利尊氏と後醍醐天皇の対立によって最悪の形で破局を迎え、足利尊氏らが支持する北朝と後醍醐天皇らが率いる南朝の2つの朝廷が並立する時代になったのです。
このような時代において南朝に従う武士たちが足利家の言うことなど聞くはずもなく、3代将軍の義満によって南北朝が統一される1392年まで室町幕府は全国の武士を従えることができませんでした。
また室町幕府が歴史上滅亡した年は15代将軍義昭が織田信長によって京から追放された1573年とされますが、実際のところ1467年から1477年まで続いた応仁の乱によって室町幕府の権威は完全に失墜していました。
この応仁の乱は足利家の後継者争いを原因として起こったもので、これを引き金に他の一族も後継者争いを引き起こし、最終的には室町幕府の主要大名家の多くが分裂して戦う大戦争に発展したのです。
さらに応仁の乱は惰性的に戦闘を続けたこともあって明確な勝者もなければ敗者もなく、ただただ室町幕府の体力を削っただけの争いでした。
応仁の乱後の100年間も室町幕府は存続していたものの、実態は京周辺を統治する一地方勢力や戦国大名への権威付け機関であり、とても武家の棟梁とは言えない代物でした。
さらに南北朝統一から応仁の乱の間の75年間も日本各地で反乱や内輪揉めが相次ぎ、室町幕府の権威は鎌倉幕府や江戸幕府に比べてはるかに弱かったのです。
そのため室町幕府は他の政権が行ったような殺生禁止令や人身売買禁止令などといった倫理的な統制令を出すこともできず、既存の法慣習や民間習俗に則って統治を行っていました。