呪術的な裁判、没落した者には人権なし
それでは室町時代において、具体的にはどのような法慣習が取られていたのでしょうか?
例えば裁判の面では、熱湯に手を入れてその火傷具合で有罪か無罪かを決める湯起請(ゆぎしょう)というものが行われるようになりました。
なおこのような裁判は戦国時代に入るとさらにヒートアップし、焼かれた鉄を持って神棚まで持っていく行為の成否で有罪か無罪かを決める火起請(ひぎしょう)というものが行われるようになったのです。
また幕府や朝廷が金融業者などに対して債権を放棄するように命令する徳政令が行われるようになり、徳政令を求める一揆も起こるようになりました。
徳政令を出すと経済に大きな影響があるということもあり、幕府は当初徳政令にかなり消極的であったものの、1454年に分一徳政令(ぶいちとくせいれい、債務者が債務額の1割を幕府に払ったら債務がチャラになる、一方債権者が債務額の1割を幕府に払ったら債権が保持される)が出されると、幕府は財政再建のために徳政令を乱発するようになったのです。
さらに徳政令を求める一揆だけでは飽き足らず、力ずくで相手との売買契約を無理やり破棄させる私徳政(しとくせい)を行う一揆も行われるようになりました。
この私徳政については幕府も問題にしており、私徳政の一揆に対して軍勢を仕向けて鎮圧したこともあるものの、鎮圧に失敗することも多々あり、私徳政を追認することさえありました。
さらに合戦に負けて逃げ延びている武士や政治的に失脚したもの、流罪を言い渡されたものに関しては、集団リンチを行って殺害したとしても罪に問われることはありませんでした。
これは当時の人々が落ち武者を始めとする没落した人間には文字通り人権がなく、これらの人々から財産や命を奪ったとしても何も問題はないと考えていたからです。
そのため室町時代において流罪は実質的には死刑として機能しており、数年後に赦免する前提で流罪を言い渡す時はかなり周到に用意をして流人の身の安全を確保しなければなりませんでした。
加えて室町時代は家の概念も今とは大きく異なっており、当時の家は、単なる物理的な住まい以上の意味を持っていました。
一度人が家に「駆け込む」と、家の主にはその人間を保護する義務が生じるというものであり、それは初対面の人物であっても例外ではありません。
この義務感は絶対的で、室町幕府すらも安易に介入できないほどの強固な「排他的宇宙」を形成していたのです。
この考えは一見すると人情に溢れるものに聞こえますが、裏を返せば「家に駆けこんだ人間は下人として扱っても問題ない」というものであり、何も知らずに他人の家に宿泊した女性がその家の主人から下人扱いされるというトラブルが起こったりしています。
他にも、土地の所有権をめぐる騒動もまた中世の奇怪さを物語ります。
「押蒔き」や「押植え」という名の行為は、争い中の土地に勝手に作物を植えて支配権を主張するというものでした。
これを放置すれば、作物が根を張るように支配も固定化されてしまいます。
そのため、土地の正当な所有者はすぐさま田畑を耕し返す必要がありました。
「耕し返さなければすべてを奪われる」、これが中世の論理なのです。