中国人を狂わせた「アヘン戦争」
時は18世紀のイギリス。
大衆の間で紅茶が大流行しており、イギリスは生産地の中国から大量に茶葉を輸入していました。
中国は当初、その見返りとして銀をもらっていたのですが、イギリス側が次第に大量の銀を輸出することを渋り出します。
そこで銀の代わりにアヘンを送ることにしたのです。
仕組みとしては次のような三角関係が描かれます。
まず、中国からイギリスへ茶葉が輸出されます。
次にイギリスはアヘンを作っていないので、植民地のインドに綿織物を送り、その代わりにインドで大量のアヘンを生産させ、中国へと送ったのです。
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そして予想通り、中国でアヘン中毒者が続出することになり、中国へのアヘンの輸入量が年を追うごとに爆増していきました。
1720年には15トンでしたが、1773年には75トン、そして1839年には2540トンというあり得ない数字にまで膨れ上がっています。
その結果、当時の中国人の4人に1人(約25%)がアヘン中毒になってしまったのです。
「これでは国が崩壊する」と危機感を抱いた中国政府はアヘンの輸入を禁止します。
さらに政府長官の林則徐は1839年、イギリスから輸入されたアヘン1180トンを没収し、大量処分する断行に踏み出しました。
しかしアヘンの輸入を止められると、イギリス人は大好きな紅茶が飲めなくなってしまいます。
そうしてイギリスと中国との間に「アヘン買えよ」「いらねえよ」のいざこざが起こり、戦争が勃発する事態に。
これが「アヘン戦争」です。
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ところが中国の相手は世界に冠たる大英帝国。
力の差は歴然で、1860年にかけて2度の戦争が行われましたが、いずれも中国は大敗しています。
中国はイギリスに多額の賠償金を支払わされただけでなく、アヘンの輸入量も今まで以上に増やされてしまったのです。
そして中国で溢れかえったアヘン中毒者は次にアメリカへと広がっていきます。
当時、アメリカ西部で大量の金が発掘されるようになり、一攫千金を狙った人々が世界各地からアメリカに押し寄せました。
ゴールドラッシュです。
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この流れに乗じ、1850年から1870年にかけて、約7万人の中国人がアヘンのパイプを携えてアメリカに流入しました。
当然ながらアメリカ人はパイプの煙をうまそうに吸っている中国人を目にします。
「よお、なんかいいもん吸ってるじゃねぇか?」「俺らにも吸わせろよ」「…おい、こりゃ絶品だな」
おそらく、そんな会話があったことでしょう。
次第にアメリカにもアヘン窟ができ、賭博師や娼婦、犯罪者たちがたむろするようになったのです。
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アヘンの魔の手はアメリカ全土に広まり、とうとう中国と同じく中毒者で溢れかえるようになりました。
こうして世界的にも「アヘンは危険すぎる」という認識が次第に定着し始めます。
そんな中、ドイツの若き薬剤師が19世紀の初めに「アヘンの危険な成分だけをなくせばいいのではないか」と考え、実験を開始していました。
こうして開発されたのが「モルヒネ」です。