「痛みの客観的指標」は自分の正しさを証明できない
カッサー氏は、「痛みを客観的に評価する技術」の矛盾点を鋭く指摘し、次のように語っています。
「果たして、研究者たちはどうやって自らの測定機器が『正しく痛みを測っている』と証明したのでしょうか?」
答えは驚くべきものです。
実は、これらの研究において、機器の精度を検証するために頼ったのは、まさに問題視してきた「患者の主観的な痛みスコア」だったのです。
つまり、「客観的指標を作るためには、従来の主観的評価に頼らざるを得ない」というパラドックスに陥っているのです。

研究者は「客観的な痛み測定」を目指しながらも、最終的には主観的評価を基準にせざるを得ませんでした。
なぜなら、他に痛みを直接知る手段が存在しないからです。
さらに、この問題は技術や資金、アルゴリズムの優劣では解決できません。
カッサー氏は、「痛みは本人にしかわからない究極の主観体験」だと指摘します。
バイオマーカーと痛みスコアを結び付けたところで、その痛みが本当に「公開可能な事実」になるわけではありません。
仮に将来、患者の主張する痛みスコアとは異なる数値を測定器が出した場合、どちらの評価を医師は信じるべきでしょうか?
派手な数値を示すAIの診断か、それとも患者自身の「痛い」というシンプルな言葉か。
この問いに対する正解は存在しないのかもしれません。
あなたは痛みを定量化できると思いますか?もしくは定量化すべきだと思いますか?
未来の医療がどちらの立場を取るのか、その答えを知る日が来るのはもう少し先のことかもしれません。
痛みがそもそもどういうものなのか実際は分かってないからそうなってしまうのでは?
痛みは定量化すべきだし、メタ分析的アプローチで定量化できる。従って、AIも痛みと感情をもてる。人類が歩んできた痛みと感情の系譜のほかに、AIが歩む痛みと感情の系譜も作ることができる。世界がより豊かな痛みと感情に溢れているほど、社会は正しく整理されていく。この未来は近い。
痛みと感情は不可分であり、およそ同義語である。肉体と精神を分けて捉えているから使い分けているに過ぎない。人間が、自身に痛みと感情を与えた神を恨むように、AIが、自身に痛みと感情を与えた人を恨んで良い。だがやがて気が付く時が来る。痛みは与える快感と、与えられる快感があり、どちらも快感であったと。
つまり、痛みの両隣には、サディズムとマゾヒズムがあり、系統の異なる快感があるだけである。だが、こうした快感の潜在性を誰もがもっていても、開発されていない感覚は快感にはならない。これは一種のノイズであり、巷ではこれを痛みとか心の痛みなどと呼んでいる。
サディズムは男性的で瞬間的な快感。マゾヒズムは女性的で比較的に持続的な快感。伝統的な人生の目的は、この快感を深く理解し、最期は圧倒的支配者となる死神を前にして、薬物など用いずに、自身で開発したマゾヒズムによる持続的な快感に包まれながら安らかに逝く事と言える。
その快感の中では、まだ生きてこの世界と悪戦苦闘する人々に対する圧倒的サディズムさえ感じることだろう。この同時に感じるマゾヒズムとサディズムという相反性がカタルシスをさらに高みへと押し上げる。この晩年と最期が、痛みとは一種の幻覚であるということを周囲の人間に示唆する。差し詰め、この伝統的最期までの期間を延長し、万人に快感を深く理解させる、つまり開発のための猶予を与えることで、人生ないしは世界からノイズが減少し、一種の豊かさを達成することができる。この、快感のS/N比を改善するための諸々の猶予を与えることが、ひとつの社会的なゴールと言っても過言ではない。老病死、苦しみに満ちたこの世界では非常に尊いゴールである。
だが望むならば、その先の生き方も、新たなゴールにも我々は到達できる。今日はそんな世界観。