デジタル民主主義の危機

今回の研究は、ネット上で大きな声を上げている人々の姿を浮かび上がらせました。
調査結果によると、サイコパシー傾向や取り残され不安(FoMO)が高い人ほど、オンラインでの政治的発言が多くなりやすく、逆に認知能力が高い人は、発言を控える傾向がありました。
言い換えれば、ネット政治ではアクセルを踏む人(勢いで突き進む人)が前に出て、ブレーキを踏む人(慎重に考える人)は目立ちにくい状況です。
つまり、投稿の量が多くても、その質(熟慮されているか)は保証されないということです。
またFoMO(取り残され不安)が強い人は、「自分だけ政治の話題に加われないのは嫌だ」という気持ちからSNS上の政治談議に首を突っ込む傾向があります。
このような人々の政治参加は必ずしも強い主義主張によるものではなく、「仲間外れになりたくない」という不安感に駆られて行動している面があります。
そのため、一見政治に積極的に関わっているように見えても、実は議論の中身よりも参加すること自体が目的化していたり、表面的・感情的な反応が多くなる可能性があります。
このようにFoMOが強い人ほど政治に参加する傾向は、調査対象となった8か国すべてで確認されており、デジタル時代ならではの特徴だと考えられます。
一方で認知能力が高い人ほど政治的発言を控えるという、一見逆説的な傾向については、「慎重さ」と「批判的思考力」が鍵だと考えられています。
知的能力の高い人は情報の真偽を見極めたり、自分の発言がもたらす影響を熟慮したりする傾向が強いため、安易にSNSで議論に飛び込むことを避けるのかもしれません。
つまり認知能力が高い人々は、オンライン政治活動に慎重で、よく考えて参加を選ぶ傾向があると説明されています。
この傾向は、多くの国(少なくとも8か国中7か国)で確認されました。
政治参加というと一般に「知的で高い志を持った人が積極的に行う良いこと」というイメージがあるかもしれません。
しかしこの研究は、少なくともデジタル空間においては、そうした「頭脳派」よりもむしろ衝動的な「行動派」が目立っている現実を浮き彫りにしました。
インターネット上では投稿やコメントのハードルが低く、感情的で刺激的な意見が注目されやすいと言われています。
そのため、じっくり考えて参加するよりも、勢いや感情を優先した参加が増える可能性が高いのです。
この発見は、デジタル時代の民主主義において重要な示唆を与えます。
もしオンライン政治空間で声を上げている人々の多くが、衝動性が高かったり不安に駆られたりする層に偏っているとすれば、ネット上の議論の質や方向性もその影響を強く受ける可能性があります。
これまでの研究では、サイコパシーやナルシシズムの傾向が強い人は、攻撃的な態度を取ったり、誤った情報や極端な意見を広めたりする傾向があると指摘されています。
そのため、こうした人々が中心となるコミュニティでは、過激な意見や誤情報が広がりやすくなってしまう懸念があります。
また、FoMOに突き動かされた参加者が多い場合、政治的な議論が深まるというより、「とりあえず参加しておきたい」という表面的な反応が増えてしまう恐れもあります。
反対に、冷静な視点や慎重さを持つ認知能力の高い人々が、あまり発言をしない状況が続けば、議論が偏り、社会全体にとって有益な意見交換が難しくなる可能性があります。
オンライン空間で「大きな声」それも認知能力が低く精神病気質の人々の声だけが目立つとすれば、それは本当に社会にとって望ましいことでしょうか?
デジタル民主主義の質を考える上で、この問題を見過ごすことはできません。
もっとも、この研究にも留意すべき限界があります。
調査で使われた性格テストは自己申告式のアンケートであるため、参加者が自分をよく見せようとしたり、正直に答えなかったりする可能性があります。
また、認知能力の測定には語彙テストという1種類のテストしか使われていないため、知能のすべての側面を測れているわけではありません。
それでもこの研究は、「ネット上の政治を動かしているのは誰なのか」という重要な問いに新しい視点を与えました。
研究チームは、オンライン政治活動が特定の性格や認知能力を持つ人々に偏りすぎることを懸念しています。
そして、ネット上での議論がバランスよく行われ、多様な人が安心して参加できる仕組みを整える必要性を指摘しています。
社会としても、この研究結果を参考に、「オンラインで政治の声を上げているのはどんな人か」を正しく理解し、より建設的で健全な議論の場を作っていくことが求められています。
多数の幸福は少数の幸福に優先するのが民主主義だとバルカン人は言っていますから、認知能力が低く行動的なものが多数なのなら彼らの幸福を優先するべきでしょう。
論理的に正しくないものは正しくないという発想では民主的に多数の個体を統治することは無理だってことです。
それならボーグでいいわけですよ、抵抗は無駄だ、お前を同化する。
>認知能力が低く行動的なものが多数なのなら彼らの幸福を優先するべきでしょう。
彼らがそれで本当に幸福になるならね
実際はそう衝動性が高い人たちは煽動者に乗せられやすいタイプなので、自分たちの幸福に繋がらないことでも一時の衝動で熱烈な支持をしてしまうんですよ
長期的に見れば論理的な選択は全体の幸福に繋がります
ネトウヨとネトサヨ、極左と極右、三度の飯のように、出くわす者に必ずといって政治論争ふっかけてはナルシズム満足させていた時代の安保世代、あんたたちのことだよ!
けど結局は発信者の背景での判断が先で、発言の是非は二の次なんでしょ
勝者に「相応しい」正しい側に「相応しい」などと背景と利害で「相応しい」声の大きさが設定されてて、それより大きい声は異常で小さいと正常と言う
ボリューム1しか許されない人の2の声とボリューム3が許される人の2の声を同等に扱ってる事を証明してからじゃないと、ただのガスライティングに思えるな
SNSなんかで、特定の人を悪者に仕立て上げて徹底的に叩き続けている人達も、サイコパシー傾向や取り残され不安が高くて認知能力が低い人達なんだろうなと思った.
ネット上には声が大きい人や同調する人しかいないように見えるけど
色々考えて、慎重になって、声を出さないけど
存在する人もちゃんと存在するよと言っておきたい
タイトル火の玉パンチでワロタ
知ってた
一概に「認知能力」の高低を政治意見を述べる姿勢だけで測れるのかは疑問だね。肝心なのはその意見の中身で、合理的な根拠・理由が示されたうえでの肯定的・否定的意見の論述なのか、エコチェンバーの自己満足的な論証性に欠けた一方的な自己主張なのかでは、当然に「認知能力」や「見識」に差異が認められると思う。
特に公職にある政治家は批判の対象になり易いが、単なる誹謗中傷の発言と、政治問題を深掘りし、新たな視点・論点を提供する意見や提案とでは、雲梯の差が見られる。
相手にも自分にも利する(有益な)内容の政治意見は、今までは素人の庶民が発言する場が極めて少なく、限られていたが、インターネット上のSNSや掲示板コミュニティが敷居を低く容易にしてくれたので、スマホやタブレット、パソコン端末から各人が自由に発言できるインフラが構築、提供されたことが大きいと思う。
特に最近はAIを利用すれば論旨の是非や根拠を事前確認し整理することができるものねぇ。昔なら大学教授や政治アナリストでなければ引用できなかった統計数値や参照文献も、AIが代わりに検索引用してくれるし、英語文献も日本語翻訳や要約までしてくれる。政治発言への障壁、ハードルがぐーんと低まった証左だね。
ばかになれって言われることはあるから
そういう時は総理大臣の顔を思い浮かべればいい
という事は、ここへコメント書いてる私たちも、認知能力が低い傾向にあるんだろうな。
認知能力が低いと馬鹿なのですか??詰まり政治関係の話が好きな方は?政治家や番記者って認知能力が低いのかしら?そんな事は無いでデスよね。でもそれが正しいなら大統領や総理や政治家は?、確かに馬鹿な大統領や政治家居ますけど、馬鹿にされるのやだから政治の話も、選挙に行くのも恥ずかしいから辞めましょうね。世の中なる様にしかならないしね。苦しくなったら生きる為やれる事やるだけ、それが政治的に駄目な事デモ、だって生きる為デスもの、元々生命の仕組と言うか、命が優先デスもの、と思う様に仕向けられてるみたいデスね。