全身麻酔中の脳が「物語の言葉の意味」まで読み取っていたと判明――でも目覚めたら忘れている
全身麻酔中の脳が「物語の言葉の意味」まで読み取っていたと判明――でも目覚めたら忘れている / Credit:Canva
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全身麻酔中の脳が「物語の言葉の意味」まで読み取っていたと判明――でも目覚めたら忘れている (3/3)

2026.05.21 17:00:54 Thursday

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意識とは何か──舞台裏で動いていた脳

意識とは何か──舞台裏で動いていた脳
意識とは何か──舞台裏で動いていた脳 / Credit:Canva

・「覚えていない」が説明できる

ここからは「脳が反応したのに覚えていない」という現象に、今回の研究に加え関連研究の成果も含めて切り込んでいきたいと思います。

研究チームはこの不思議な結果を、ひとつのキーワードで整理しています。

それは、「焼きつける働きが弱まっていた」ということです。

私たちが何かを覚えるプロセスは、大きく二つの段階に分けられます。

ひとつめは、今この瞬間の出来事を、脳の神経活動のパターンとして書き取る段階(専門的には「符号化(エンコーディング)」と呼ばれます)。

ふたつめは、書き取った内容を、あとから引き出せる長期の記憶として焼きつけ直す段階(こちらは「固定化(コンソリデーション)」)です。

たとえるなら、ひとつめは「メモを取る作業」、ふたつめは「メモを清書して本棚にしまう作業」のような違いです。

メモは取ってあるのに本棚に並んでいなければ、私たちは「あとから取り出して読み返す」ことができません。

記憶研究の権威であるアメリカ・カリフォルニア大学アーバイン校のジェームズ・マクガフ博士は、サイエンス誌に発表した総説で、この「焼きつけ直す段階」を「分・時間、ときには日単位で進む、長く続く作業」だと整理しています(McGaugh, 2000, Science)。

今回の発見が示しているのは、麻酔下の海馬ではメモを取るところまでは動いていたが、本棚にしまう作業が止まっていた、という構図です。

では脳は、どうやって経験を「本棚に並べる」のでしょうか。

鍵になるのは、なんとも不思議な現象です。

経験のあと、脳がその活動をすばやく自分で再生する──そんな働きが、海馬にはあるのです(専門的にはこれを「リプレイ(再生)」と呼びます)。

1994年、サイエンス誌に発表された画期的な研究で、迷路を走り抜けたネズミの海馬では、休んでいるあいだに、走ったときとまったく同じ神経の発火パターンが何度も繰り返されることが報告されました(Wilson & McNaughton, 1994, Science)。

まるで脳が、自分で経験のビデオを早送りで何度も再生しているような現象です。

それ以降の研究で、このリプレイの瞬間に現れる特徴的な脳波(専門的には「鋭波・リップル」と呼ばれます)こそが、記憶を本棚にしまう鍵だと考えられるようになっています(Buzsáki, 2015, Hippocampus)。

ところが、今回の実験で使われたプロポフォールという麻酔薬には、ある特徴があります。

脳のあちこちの領域が、息を合わせて連携することを強く抑える働きがあるのです(専門的には「広域的なネットワーク同期の抑制」と呼ばれます。Mashour & Hudetz, 2018, Trends in Neurosciences)。

リプレイをして記憶を本棚にしまうには、奥座敷にあたる海馬と、本棚にあたる大脳皮質(脳の表面に広がる領域)が、綿密に手を取り合う必要があります。

ところが麻酔下では、その手のつなぎ方が切れている。

だから、入り口でメモを取るところまでは動いていても、その先のリプレイや本棚への書き込みは、十分には進みにくかった可能性があるのです。

患者さんが何も覚えていなかった理由は「処理は走った。けれど、焼きつけることができなかった」とまとめることができるのです。

・「なんとなく残っている」も説明できる

長年、医師たちは「麻酔中の何かが、なんとなく心に残ってしまった」と訴える患者さんに、ときおり出会ってきました。

明確に思い出せるわけではないけれど、漠然とした不快感だけが残っている、というケースです。

これは医学の世界で、明確には思い出せないけれど心のどこかに残っている記憶(専門的には「暗黙記憶(implicit memory)」と呼ばれます)として知られる、長年の謎でした。

2021年、イタリアのパドヴァ大学を中心とした研究チームが、これまで世界中で行われた関連研究をまとめて統計的に検証する大規模な分析(専門的には「システマティック・レビューとメタ解析」と呼ばれる手法)を発表しています。

そこでは、こうした漠然とした記憶の痕跡が、麻酔から覚めた患者さんに一定割合で実際に残っていることが確認されました(Linassi et al., 2021, Life)。

今回のネイチャー論文も、自分たちの発見を「この長年の謎を、神経活動のレベルで説明しうるもの」と位置づけて、この先行研究を引用しています。

メモを取るところまでは進んでいたから、痕跡は確かに脳のどこかに残った。

けれども本棚にしまう作業は不完全だから、思い出として取り出すことはできなかった──そう考えると、患者さんが訴える「なんとなく嫌だった」「気分がしばらく沈んでいた」という感覚も腑に落ちます。

意識のない脳でも、心のすみに何かを置いていく。

今回の研究は、その「置き方」の仕組みに、初めて細胞レベルの説明を与えたのです。

そして、未来の応用についても触れておきましょう。

筆頭著者のヴィギ・カトロウィッツ博士は、こんな問いを投げかけています。

「これらの信号を利用して、脳卒中や外傷で話せなくなった人のための音声補助装置を動かすことはできないだろうか」と。

すぐに実現するわけではありません。

けれども海馬がこれほど豊かに言葉を処理しているのなら、そこから信号を取り出して、話せなくなった人の「言いたいこと」を読み取る装置のヒントにできるかもしれない──そういう未来像です。

・意識と記憶は同じ「つながり」の仕組みをもつのか?

最後にもうひとつ、研究チームが投げかけている、もう一段深い問いがあります。

「意識とは何か」──その答えは、もしかするとひとつの脳の領域に宿っているのではなく、複数の領域が連携してやりとりする「つながり方」の中にあるのではないか、と研究者たちは指摘しています。

これは「意識は脳のあちこちの領域が情報を共有する仕組みから生まれる」という考え方(専門的には「グローバル・ニューロナル・ワークスペース仮説」と呼ばれます)に通じる発想です。

フランス・コレージュ・ド・フランスの神経科学者スタニスラス・ドゥアンヌ博士らが長年提唱してきた理論で(Dehaene & Changeux, 2011, Neuron)、脳の各領域はそれぞれの仕事を続けていても、それを束ねる広い範囲のやりとりが途絶えれば、私たちが「意識」と呼ぶ統合された経験は成立しない──そんな考え方です。

ここで、ある気づきが浮かび上がってきます。

先ほど見た「記憶を本棚にしまう作業」もまた、海馬と大脳皮質の広い範囲の連携を必要とする現象でした。

「意識」と「記憶」は、どちらも脳の領域同士のやりとりによって成立するという、同じ仕組みに支えられている可能性があるのです。

患者さんが覚えていなかったのは、麻酔下の脳が「働いていなかったから」ではなく、「働き同士のつながりが弱められていたから」。

そう考えると、私たちが手術台で失っているのは活動そのものではなく、活動を束ねて一本の経験にする”接続”の方なのかもしれません。

研究を率いたシェス博士は、こう締めくくっています。

「脳は、私たちが完全に理解している以上に、舞台裏で多くの働きをしているのです」。

今回の研究は、意識の謎に直接答えるものではありません。

けれども、答えを探すべき方向に、そっと光をあてた一本だったと言えそうです。

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