アザラシは耳の中の「海綿体」を膨張させて水中音を聞く

アザラシの耳の穴と中耳の内側には、私たちの耳にはない構造があります。
血管がぎっしり詰まっていて、血液を送り込むと風船のように膨らむ海綿状組織と呼ばれるものです。
ヒトのペニスの海綿体と同じく、血液をためてふくらむ仕組みが耳の中にあるわけです。
面白いことに、耳の中にこの構造を見つけ、名前をつけたのは1899年のことでした。
そして1960年代から70年代にかけて、「この血で満たされた組織こそが、音の通り道なのではないか」という仮説も提出されていました。
人間は耳の中にある空気の層のせいで水中の音が上手く聞こえませんが、アザラシは水に潜ると、その空気の部分が血液で満たされた海綿状組織でふさがれ、水中の音波を海綿状組織の中の血液を介して、効率よく鼓膜に伝えられるという考えです。
ところが、この仮説は長らく顧みられることはありませんでした。
今回の論文の表現を借りれば「わずかな関心しか払われてこなかった」のです。
理由は、確かめる手立てがなかったことにあります。
この仮説をきちんと検証しようとすると柔らかい組織を壊さずに、耳の内部をまるごと覗く必要があります。
潜っている最中のアザラシの耳を覗ければ手っ取り早い、と思うかもしれません。
しかし、たとえ組織が膨らむ様子をとらえられたとしても、わかるのは「膨らんだ」という事実だけです。
その組織を通って音が届いているのか。それとも音は別のルートで届いていて、組織はただ耳を守っているだけなのか眺めているだけでは、区別がつきません。
実験動物であれば、耳の部分を切り開いて、疑わしい部分を切り取ったり塞いだりして、聞こえなくなっているかを確かめるという手段がとれます。
しかしアザラシの多くは保護の対象となっているため、実験のために聴覚器官のパーツを取り除いていくという方法はとれません。
しかも組織が膨らむのは、深く潜っている真っ最中です。その状況を再現すること自体が、そもそも簡単ではありません。
その状況を変えたのは、博物館の収蔵庫に眠っていたものでした。

タスマニア博物館・美術館の収蔵庫には、オーストラリアオットセイ、ヒョウアザラシ、ミナミゾウアザラシという3個体の頭部が軟らかい組織ごと液に浸けて保存されていました。
研究者たちはこれを、医療用のCTにかけました。
結果、海綿状組織が耳の穴の内側から中耳の空間まで、内壁をびっしり裏打ちするように広がっていることがわかりました。
さらに音を伝える小さな骨たちは、この組織の中に上から吊り下げられるような格好で収まっていることも確認できました。
つまりこの組織は、耳の中にちょこんと置かれた部品ではありませんでした。音の通り道そのものを、内側から包み込んでいたのです。
さらに研究者たちは、海水から血液へ音が入るときに何が起きるかを計算しました。
するとはね返されるのは1パーセントにも届かず、99パーセント以上がそのまま通り抜けるという計算になりました。
もし海綿状組織の内部が血でいっぱいになっていれば、海水の音波を鼓膜に届けるための音の通り道として機能できたはずです。
とはいえ、ここまでは「そうなるはずだ」という話にすぎません。
そこでチームは、ひとつ古い論文を引っぱり出してきました。
1975年のことです。
研究者たちは、タテゴトアザラシの頭部に水中で音を当て、どこがいちばん強く反応するかを調べていました。頭のあちこちに音をぶつけては、反応を記録していく。ひたすら地道な作業です。
結果、最も敏感だったのは、耳の穴の開口部のすぐ下、頭の側面という場所でした。
耳の穴そのものではありません。その少し下の、外から見ればただの皮膚と肉にすぎない場所です。
ただ当時はなぜそこなのか、不明のままでした。
しかし今回、CTで浮かび上がった海綿状組織の走行ラインは、まさにその「敏感な場所」と重なっていたのです。
血液の性質から導かれた理屈が、「音はここを通るはずだ」と言う。
タテゴトアザラシで取られた50年前のデータが、「ここが敏感だ」と言う。
そしてCT画像が、「ここに組織がある」と言う。
三つは、それぞれ別の時代に、別の方法で、別の目的のもとに得られたものですが、どれも海綿状組織が水陸両用の耳の鍵であるという仮説を、互いに補強していました。































