一時間の内側で働いているもの

「簡単に見える仕事はいくらでも代わりがいる」
多くの人はそう思うだろうし、実際の賃金も「マニュアル通り」を求められる仕事ほど「代わりがいる」と思われている。
だが労働研究の分野では、マニュアルに巨大な穴が開いていることが20年以上前から報告されている。
米国の社会学者ライドナーは、ファストフード店で自ら働きながら、仕事が標準化されていく現場を記録した(『Fast Food, Fast Talk』1993年)。
企業がマニュアルに組み込んでいたのは、商品の作り方だけではない。
接客の言葉も、身ぶりも、決められていた。
ここまで決まっていれば、働き手はもう何も判断しなくてよさそうに見える。しかし実際は逆だった。
決まった流れがあるからこそ、そこから外れた部分が浮かび上がってきたのだ。
端末が反応しない。微妙な年齢確認。列が伸びはじめる。
マニュアル化が進むと、そういった部分を誰よりも早く見つけて流れへ戻すのが、働き手に委ねられた仕事になっていた。
マニュアルは判断の必要性を消していなかった。
人間に委ねる判断をマニュアルにない別の場所に、変えていただけだったのだ。
「だったらこれまでの事案を全て洗い出して、全てに対応した超詳細なマニュアルを作ればいいだけだ」と思うかもしれない。
しかし、それは不可能である。
端末の不調も、年齢確認も、伸びる列も、一件ずつならマニュアルに書けるが、複数種類のトラブルが同時多発的に起きた場合、組み合わせを考えるとマニュアルのページ数は天文学的な量になる。
それに数ページのマニュアルすら、しばしば忘れられるという実際の状況を考えると、現実的でない。
もう一つは感情である。
社会学者ホックシールドは、賃金と引き換えに自分の表情や感情の調子を仕事に合う形へ整える営みを「感情労働」と呼んだ(『管理される心』1983年)。
直前の客に強い言葉を向けられても、その続きを次の客に渡さない。
興味深いのは、この領域ではマニュアルが急に無口になることだ。
揚げ物の廃棄時刻は分単位で書けても、苛立った客に何を感じ、何を顔に出さないかは、手順に書けない。
だから手順書はそこで「プロとして接客しましょう」といった言葉に切り替わる。
だがこれは指示ではない。
働き手の心に任せる、という白紙委任である。
マニュアルがいちばん頼りにしているのは、マニュアルに書けないものなのだ。
しかもマニュアルに書けない部分の人間の創意工夫は、簡単には見えてこない。
同じ場所、同じ店、同じ商品、同じマニュアル、それでも売り上げに明確な差が出ることはよくある。
「誰にでもできる」「完璧なマニュアルがある」「いくらでも代わりがいる」「だから最低賃金でいい」。
一見して合理的に見える理論のピラミッドは、下から順に崩れている。
「誰にでもできる」は、面接で人を落とすたびに、雇う側自身が否定している。
「完璧なマニュアル」は、どの頁を開くかを決める頁を持たず、肝心の場面では「プロとして」という精神論に切り替わる。
「いくらでも代わりがいる」は、同じマニュアルの店どうしに売り上げの差が出るたびに、静かに反証されている。
それでも、頂上の「だから最低賃金でいい」だけは宙に浮いたまま残る。
土台が崩れても結論が落ちてこないのは、順序が逆だったからだ。
値段が先にあり、理論はあとから積まれた。
このピラミッドは、結論を支えていたのではない。
結論を飾っていたのである。


































