コペンハーゲン解釈を否定するために生まれた「シュレーディンガーの猫」
ボーアの解釈に一撃を加えるEPR論文の発表に大喜びしたのはシュレーディンガーでした。
彼はEPR論文を褒める手紙をアインシュタインに書き、その中で相互作用した2粒子を表現するために世界で初めて「エンタングルメント(量子もつれ)」という表現を使います。
(厳密にはこのとき書いたのは英語ではなく、後に英訳されてエンタングルメントになります)
「量子もつれ」は現代の量子力学研究の最重要事項と言って良いものですが、この用語の誕生に関わったのもシュレーディンガーだったのです。
ここまで量子力学に貢献していながら、シュレーディンガーは自分の方程式に対するボーアたちの解釈にまったく納得していませんでした。
アインシュタインはこのシュレーディンガーの手紙に返事を書き、その中で確実なことに対して確率しか示すことのできない量子力学を次のように批判しました。
「翌年中に爆発する不安定な火薬樽があったとして、それが一年後、爆発した状態と爆発していない状態の中間だなんて、まともな記述じゃないでしょう。そんな状態の樽は現実に存在していないのですから」
シュレーディンガーは、この量子力学の奇妙な振る舞いをマクロな世界に置き換えた例え話が非常に気に入りました。
そこでシュレーディンガーは、これをきちんとした思考実験としてデザインし直して、論文にしてみようと考えました。
そして翌年発表されたのが、みんな大好きな「シュレーディンガーの猫」という思考実験です。
それは次のような内容のものでした。
【1匹の哀れな猫が鋼鉄の箱の中に悪魔的な装置と共に入れられています。
その装置はガイガー計数管の中に非常に少量の放射性物質を入れたもので、これが1時間後に原子崩壊する可能性は50%です。
ガイガー計が放射線を感知するとハンマーが稼働して青酸ガスの入った瓶を叩き割り猫は死にます。
原子崩壊は極めて量子的な現象で、それは観測するまで確率でしか状態を知ることが出来ません。
量子力学では、1時間後の原子は崩壊した状態と崩壊していない状態が50%で混合した状態と記述されます。
この場合、原子の崩壊に生死の運命を握られている箱の中の猫も、観測されるまで生きている状態と、死んでいる状態が重なり合った不可思議な状態にあるということになります。】
この思考実験でシュレーディンガーのやりたかったことは、コペンハーゲン解釈がいかに馬鹿馬鹿しい主張をしているかを示すことでした。
しかし現代のほとんどの人たちは、これをコペンハーゲン解釈の意味を説明するための例え話として引用しています。
シュレーディンガーにとっては残念な事に、彼の仕事はことごとく彼の思惑とはまったく逆の成果を生んで現代に伝わっているのです。
そもそもこうした主張の中核となっているのが、シュレーディンガーの考案した波動方程式でした。
そのためシュレーディンガーは、「私の波動方程式がこんな風に使われるのなら、論文などにしなければよかった」とまで言って嘆いたそうです。
物理学者でない私たちには、自分と異なる解釈で自分の理論が使われてしまうシュレーディンガーの悔しさは、なかなか想像が難しい問題です。
しかし、例えばシュレーディンガーが物理学者ではなく、現代の漫画家だったと考えてみましょう。
漫画家シュレーディンガーは、あるとき非常に素晴らしい男同士の友情物語を描きましたが、それはなぜかネットで上質なBL漫画としてバズってしまい、彼の名は世間にBL作家として認識されてしまいます。
この場合、作家は「名が売れたんだし、まあいっか」となるでしょうか? おそらく自分の作品の解釈について、必死で抵抗するのではないでしょうか。
科学者にとって自身の発表する論文とは、自身で作り上げた芸術作品のようなものです。
自分と異なる解釈で波動方程式を使われたシュレーディンガーの悔しさは、そんな感じだったのかもしれません。
ともかく偉大な量子力学の成功者でありながら、ちょっと不憫な研究者、それがシュレーディンガー博士なのです。