神聖隊が散った日:敵将の心も動かした最後の戦い
その後、ギリシアの覇権を握ったテーバイは、紀元前338年に北のマケドニア王国と運命の一戦を迎えます。
この頃、ギリシアの都市国家は長きにわたる戦乱で疲弊し、ピリッポス2世(アレキサンダー大王の父親)率いるマケドニアの格好のターゲットとなっていました。
しかも、ピリッポス2世は若い頃に3年間、テーバイの人質として過ごし、神聖隊の活躍や斜線陣(ロクセ・ファランクス)の戦術を目に焼き付けていたのです。
そして彼がマケドニアの王座に就くや、神聖隊をモデルにして軍隊の強化を図りました。
ファランクス戦術を取り入れるだけでなく、槍をサリッサ(sarissa)というリーチの長い矛に変え、さらに剣や鎧、兜(かぶと)にいたるまで、あらゆる武具を改良。
テーバイの神聖隊をはるかに凌ぐ最強の軍隊が誕生したのです。
紀元前338年8月、テーバイとアテナイの同盟軍は、ボイオチア地方にてマケドニア軍を迎え打ちました。
これが「カイロネイアの戦い」です。
同盟軍の兵力が、神聖隊を含む1万の歩兵と600の騎兵なのに対し、マケドニア軍は3万の歩兵と3000の騎兵と、圧倒的な差がありました。
加えて、マケドニアはテーバイの戦術を知り尽くしており、ファランクスも通用しません。
こうして、同盟軍はなすすべなく、強大なマケドニア軍に叩き潰されてしまいました。
しかし、多くの歩兵が敗走する中、テーバイの神聖隊は誰一人逃げることなく、最後まで戦い抜いたのです。
愛する人を守るため、その場を去るという選択肢はなかったのでしょう。
結果、神聖隊は壊滅的なダメージを受け、300人中、なんと254人が戦死。
その勇姿を目の当たりにしたピリッポス2世は、神聖隊の愛と勇気に激しく胸打たれ、彼らの亡骸を前に涙し、讃え、弔ったと言われています。
神聖隊は戦場に埋葬され、墓地の上に「カイロネイアのライオン(The Lion of Chaeronea)」と呼ばれる記念碑が建てられました。
19世紀に行われた発掘調査では、7列に並べられた254体の遺骨が発見され、これが神聖隊の亡骸であることが判明しています。
この戦いの後、再び神聖隊が結成されることはありませんでした。
しかし、彼らの愛と勇気の物語は、歴史の偉大な1ページとして人々に記憶され続けるでしょう。