暗殺教団の生みの親「ハサン・サッバーフ」とは?
ハサン・サッバーフ(?- 1124)は、今日のイランの首都テヘラン南部にて、十二イマーム派(シーア派の一派)の家に生まれました。
ハサンは、早い内から様々な学問に強い関心を抱き、17歳ごろまで数学や天文学、言語学や哲学などを研究していたという。
この間に、彼はイスマーイール派と接触し、その教義に感化され、信徒となっています。
のちハサンは、ペルシア国内を広く巡り、布教のための拠点を探す中で、イラン高原にあるアラムート城を占領。
この高地を拠点としたことから、ハサンは「シャイフル・ジャバル(山の長老)」と呼ばれるようになりました。
そして11世紀末に、先述したファーティマ朝の後継者争いの中で、ニザール派が誕生すると、その最初の指導者として即位します。
ニザール派は、山中を拠点とする秘密主義を通し、「退廃的な異端者」として非難され、スンナ派だけでなく、同じシーア派からも毛嫌いされていました。
彼らを潰そうとする多くの敵に取り囲まれたニザール派の人々は、生き残るための行動を取らなければなりませんでした。
ハサンは、戦闘術に優れた戦士を選抜、育成し、これを「フィダーイー(=自己を犠牲にする者たち)」と名付けます。
しかし、少数派の彼らが、まともに大勢の敵とぶつかっては勝ち目がありません。
そこで、ハサンが採用した方法が、特定の要人をピンポイントで消す「暗殺術」だったのです。
敵地への潜入から拷問、暗殺、自死の心構えまで、あらゆる訓練を受けたフィダーイーの戦士は、敵に多大なる恐怖を与えました。
この暗殺集団の噂は、同時期に聖地エルサレムの奪回に来ていた、キリスト教徒の十字軍の間にも知れ渡ります。
実は、アサシン(暗殺教団)伝説が西洋から世界に広まるきっかけは、ここにありました。