江戸時代の風景
江戸時代の風景 / credit:小笠原玄(Ogasawara Gen) – ORADA
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「江戸時代の経済学」インフレの原因?貨幣と別に藩が独自に刷っていた藩札とは (2/3)

2023.10.22 Sunday

前ページ慢性的な貨幣不足に陥っていた江戸時代

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江戸幕府も扱いに困った藩札

福山藩が発行した藩札、福山藩内でのみ使用可能だった。
福山藩が発行した藩札、福山藩内でのみ使用可能だった。 / credit:wikipedia

そもそも藩札とは何でしょうか?

藩札は江戸時代における特有の通貨で、各藩政府が発行し、領内での通用を保証した紙幣です。

ただ、当時は大名の領地や支配機構について「藩」という名称は使われておらず、当然「藩札」という名称は使われていませんでした。

当時の人は藩札に当たるものを金札、銀札、銭札、米札など、額面表示方法によって呼んでいました。

また、紙幣の原料が楮であるため、楮幣や領分札、お國札、フダなどの名前も使われていたようです。

この藩札とは似て非なるものに、私札と呼ばれるものも存在しました。

私札は完全に私人によって発行され、一種の約束手形や自己宛小切手として機能していたものです

一方、藩札は最初こそ正貨の準備を持つ信用貨幣でしたが、藩の財政が窮乏するにつれ、政府の高権威のみに依存する政府貨幣へと変わりました。

その結果、健全な流通を続けた私札に対し、藩札は混乱を招き続ける貨幣となりました。

藩札の始まりは通説では1661年に発行された越前国福井藩札とされていますが、近年の研究により、福山藩札が1630年に発行された可能性も示唆されています。

これには福山藩の銀札を領内で使用するように広島藩に指示する書類と、福山藩の銀札の広島藩内での使用を禁止する触書が見つかったことが根拠です。

ただし、一部の研究者は福山藩が私札に対して通用規則を示すだけであり、藩札の始まりとはみなさない見解もあります。

江戸時代における藩札の発行に対する幕府の姿勢は変遷がありました。

当初、藩札の発行は少額であり、正貨不足を補完する役割もあったため、幕府は形式的な許可や黙認の姿勢をとっていたのです。

また、藩札は藩内限定の通貨であったことから、特に問題視されませんでした。

しかし、藩札は銀などに裏打ちされておらず、各藩の懐事情をもとに信用創造された通貨だったのです。

なので大量に発行したことにより、価値が暴落し物価の上昇が問題となったのです。

これと似たようなことは現代でも起こっており、ジンバブエがその代表です。

ジンバブエでは政府の要求するままに中央銀行がジンバブエ・ドルを刷りまくった結果、通貨の価値が暴落し、ハイパーインフレが起こりました。

そして2009年には公務員の給料をアメリカ・ドルで支払うようになり、2015年にはジンバブエ・ドルは廃止されたのです。

このようなインフレに対応するため、1707年に幕府は藩札の発行と使用を全面的に禁止しました。

しかし藩の用意してある銀はとても全ての藩札と交換できる量ではなく、正貨への引替えに苦しみ、完全な引替えは実現しなかったのです。

その後、幕府はインフレを解消するために通貨圧縮政策を実施しました。

具体的には貨幣に含まれている金と銀の比率を変更して金を多くするというものであり、それにより貨幣への信頼を取り戻そうとしたのです。

しかし当時は佐渡金山の金脈が枯渇するなど貴金属の産出量が減少しており、金銀の比率の変更を行ったことになり貨幣の発行できる量は大きく減りました。

それにより今度は日本全国で深刻なデフレになり、藩財政の更なる窮乏化が発生したのです。

このため、1730年に藩札禁止令が解除され、多くの藩が藩札の発行を再開し、増発に踏み切りました。

このようにして、江戸時代中には幕府の濫発警告や抑制を伴いつつも、藩札を持つ通貨体制が持続し、幕末・維新時代まで続いたのです。

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