オックスフォードでは学生が多くの殺人事件を起こしていた
オックスフォード大学で有名なイングランド東部の都市オックスフォードですが、中世の時代からパリと並ぶ学習の中心地であり、ヨーロッパ中から学生が集まっていました。
当時の人口は7000人程度で、そのうち1500人程度が学生だったと考えられています。
しかし、オックスフォードの人口当たりの殺人率は、ヨークやロンドンのような他の人口の多い都市に比べて4~5倍ほど高いものでした。
換算すると年間10万人あたり、約60人から75人が殺人事件の被害者となっている計算になり、今のイギリス40倍近くにも及びます。
殺人事件の犯人の75%は「クレリカス」という人たちでした。クレカリスとは、当時新しく設立されたオックスフォード大学の学生やスタッフを指すのに使われていた言葉です。
そして被害者の72%もまたクレカリスの人たちで、絶え間なく学生間の紛争があったことが考えられます。
当時のオックスフォード大学の学生は全員男性で、特に14歳から21歳の間の暴力や危険な行動に走りやすい年齢でした。
彼らは家族、教区、ギルドなどの厳しい管理から解放され、酒場に入り浸っているような血気盛んな男たちだったのです。
中世の殺人マップにもそれを象徴する下記のような事件が多数掲載されています。
スクールストリートで学者の一団が仲間の学者を殺害
こちらは学者同士の小さないざこざから起きた殺人事件のようです。
1303年2月21日、ダラム司教区の書記官ウィリアム・ド・ルールが、聖ミルドレッド教区の下宿で真夜中に亡くなりました。金曜の朝に、検視官トマス・リセワイが彼の体を検視しました。
陪審員たちの証言によると、門限の時間に、ノース・ウェールズ出身の書記官ルイとウェールズ出身の書記官デイヴィッド・アブ・オウェイン、そして他にも氏名不明の数人がスクール・ストリートという通りにいました。
その時、ウィリアム・ド・ルールの2人の仲間が通りにやってきて、通りを歩こうとしましたが、ルイたちが彼らに向かって暴行を始めました。これにより、すぐに現場で騒動が巻き起こりました。
この騒動を聞いたウィリアムは、宿舎にいたため、仲間を助けようと杖を持って通りに出てきましたが、返り討ちにされて亡くなりました。
この他にもオックスフォードの殺人マップには、学者たちによる暗殺や、弓矢、剣、スリング、石などを手に暴れ回る学者たちが起こした殺人事件など、多くが掲載されています。
バイオレンスだが無法地帯ではなかった
当時のイギリス、特に都市部は荒くれ者が多く、また、ナイフを始めとした武器が身近だったため、命に関わる争いごとが頻繁に起きていたようです。
しかしそれは当時の都市部が決して無法地帯だったというわけではないようです。
小さな事件でも陪審員による調査が行なわれ、犯人は法のもとに裁かれていました。そしてその事件の詳細は記録され、今もなお語りづがれているのです。
これらの記録を通じて、当時の社会の秩序や法律、そして人々の生活の側面を垣間見ることができます。
中世の殺人マップは、ただ過去の殺人事件を参照するだけでなく、時を超えて社会や法のあり方を学ぶ興味深いツールなのかもしれません。