羊の毛を持つ犬は存在した
太平洋に面した米国とカナダの国境付近に住む複数の先住民族には、かつて自分たちの先祖は白くてフワフワした「羊の毛」を持つ犬たちを飼っていたとする伝説が存在しました。
羊毛質の犬の毛は、普通の犬の毛と違って細い糸にすることが可能であり、機織り機でブランケットなどの毛織物を作っていたと述べられています。
(※新大陸には馬・牛・羊などがいないことが知られており、人々は羊毛の代りに「羊の毛」を持つ犬をつかって毛織物を作っていたのです)
しかし伝承の収集が行われた時(1950~1960年代)は、羊の毛を持つ犬(コースト・セーリッシュ・ドッグ)が失われてから既に1世紀が経過しており、一部の科学者たちは「ヒツジイヌ」などは神話の存在に過ぎないと述べていました。
そこで今回、スミソニアン博物館の研究者たちは、150年前に収集された「マトン」と名付けられていた犬の毛皮のDNAと、コーストセーリッシュ地域の長老たちへのインタビューを統合し、彼らの伝承が遺伝子に反映されたものであることを証明しようとしました。
結果、羊の毛を持つ犬は神話の存在ではないことが判明します。
DNA分析では毛と皮膚に関連する20以上の遺伝子が発見され、その中には犬の毛が羊の毛と同じように縮れさせるものが含まれていました。
このことから、伝説の犬の毛は普通の犬の毛と違って、本物の羊の毛のように丈夫な糸にできたことを示しています。
さらに長老たちのインタビューからは、羊の毛を持つ犬たちは、その他の用途の犬たちとは明確に別けて、混ざらないように注意深い交配が行われ、大切に育てられていたとされていましたが、これもDNA分析によって証明されました。
DNA分析は、羊の毛を持つ犬たちの遺伝的多様性が低く、同じ地域に生息する多様な犬たちと人為的に交配を避けられていたことが示されました。
これらの結果は、長老たちの口伝がDNA分析によって裏付けられたことを示しています。
口伝されている伝承の内容をDNAの分析結果と「嚙み合わせる」今回の手法は、民俗学や人類学の新たなスタンダードとして非常に高い評価を受けています。
また伝承では犬の毛から作られる毛織物の重要性についても述べられています。
長老たちの口伝によれば、ブランケット1枚分の羊毛質の毛を集め、洗浄し、糸に紡ぐだけでも1年以上かかる場合があり、さらに植物で染色したり、他の動物の毛を織り交ぜるといった膨大な労力が注がれたとされています。
母系制のコーストセーリッシュ社会では、そのような手の込んだ毛織物を所有しているということは、その家族が、特別な「羊の毛」を持つ犬に餌を与え飼い続けるだけの豊かさと、莫大な労働力を費やせる余裕があることを示しており、社会的ステータスを反映するアイテムとして重要視されていました。
その証として、それぞれのブランケットには絵画のように独自の名が与えられ、スピリチュアルな意味が込められていました。
そこで研究者たちがスミソニアン博物館に保存されている毛織物を分析したところ、実際に犬の毛が使われていたことが明らかになりました。
一方、150年前に収集された羊の毛を持つ犬「マトン」のミトコンドリアDNAを分析したところ、マトンの先祖が少なくとも4000年前に他の犬の系統から分岐したことが判明します。
この結果は、羊の毛を持つ犬たちや、羊毛質の毛から作られた毛織物は、コーストセーリッシュの人々にとって、精神文化を象徴する重要なものであり、人々が超長期にわたり、特殊な毛皮を維持するための努力を続けてきたことを示しています。
羊の毛を持つ犬たちは長らく、日本犬やヨーロッパスピッツが輸入されて現地に根付いたものだとする見解がありましたが、今回の研究は4000年に及ぶ長い歴史が証明されたのです。
しかしそうなると、気になる点が出てきます。
なぜ長きに渡り大切に育てられ、精神的文化の支柱と考えられていた犬たちは、絶滅してしまったのでしょうか?