ほとんど行われなかった無礼討ち
無礼討ちは武士が耐え難いほどの無礼を働いた相手を殺すというものです。
無礼討ちが制度として認められていたのは、武士の権威が儀礼の場だけではなく日常の場でも目に見える形で表現されるべきという考えがあったからといえます。
無礼として扱われていたのは、武士の体や身に着けている刀にぶつかり、それを咎められても謝罪せずに罵詈雑言を浴びせたり刀で斬りかかったりした場合などです。
他にも武士に対して耐え難い屈辱を与えた場合は無礼討ちが行われていましたが、命の危機を感じるような危害を受けた場合を除いて、武士は無礼討ちをする前に相手に謝罪をする機会を与えていました。
この無礼討ちは時代劇などでは多く見られるのとは対照的に、実際の江戸の世ではあまり見られませんでした。
と言うのも武士が無礼討ちを行った場合、奉行所や藩に届け出を出さなければならなかったからです。
届け出を受けた奉行所や藩は「この武士は本当に耐えがたいほどの無礼を受けたのか」について調査をし、調査の結果耐えがたい無礼を受けていたことが分かった場合のみ、晴れて無礼討ちとして認められたのです。
もし奉行所や藩が調査の末、「その程度のことで刀を抜くとは武士としていかがなものか」と判断した場合、辻斬りとして扱われて死罪が言い渡されました。
無論そこで嘘をついたり届け出をしなかったりした場合も、問答無用で死罪が言い渡されていました。
また無礼討ちをするために一度刀を抜いた場合は、絶対に相手を殺すことが求められていました。
江戸時代は武士の世の中と言われていたこともあり、一般的には武士が自由に闊歩していたイメージがあるものの、実際は制度によって厳しく縛られていました。
フィクション作品では、横柄な武士が無法者のように振る舞う様子が描かれることもありますが、実際武士は自由気ままに強権を振るう存在ではなく、無礼討ちにもかなりのリスクや、ためらいがあったと考えられます。
例えばこんな話があります。
尾張藩(現在の愛知県西部に所在)に仕えていたある侍は、傘を差して歩いている時に町人とぶつかりました。
侍は町人に謝罪するように求めましたが町人は無視をしたため、無礼討ちをしようとしたのです。
しかし侍は「丸腰の人間を殺すのは武士としていかがなものか」と考え、自分が持っている脇差を町人に渡して決闘という形にしようとしましたが、町人は脇差を持ったまま逃げ出して、「私は侍を打ち負かしたぞ!」と周りに言いふらしたのです。
それを受けて侍は雪辱を果たすために町人の家を突き止めて、町人の家族全員を殺しました。
このようなこともあって無礼討ちは庶民に対して、武士が生殺与奪の権を持っていることを示威するためのものではなく、武士の名誉の回復と攻撃から自分を守るための正当防衛という性質が強かったようです。
武士は自身の名誉を守るために仇討ちや無礼討ちをすることを強いられており、武士にとって復讐は権利ではなく義務であったことが伺えます。
>奉行所や藩は「この武士は本当に耐えがたいほどの無礼を受けたのか」について調査をし、調査の結果耐えがたい無礼を受けていたことが分かった場合のみ、晴れて無礼討ちとして認められたのです。
被疑者が調査機関の身内だったり権力者だったら、調査なんか行わずに無礼討ちとして認めるとかあったんだろうな
逆に被疑者を陥れるために本当は無礼討ちと認められる事例でも辻斬りとして処理したりとか