人類は「ハンセン病」にどう向き合ってきたのか?
ハンセン病は「らい菌(学名:Mycobacterium leprae)」が主に皮膚と神経を侵す感染症です。
治療法が確立された現在では「らい菌」に感染することも発病することもほぼありませんが、もしハンセン病に罹ると、体の神経が麻痺して、痛みや温度の感覚がなくなり、皮膚に様々な病変が起こります。
また症状が悪化すると体の一部が溶け出すように変形してしまうことが知られています。
それゆえにハンセン病患者は数千年にわたり人々から悪辣な差別や偏見を受け続けてきました。
ハンセン病と人類の歴史はとても古く、古代中国やインド、キリスト教の聖書など、紀元前後の古い書物にはすでにハンセン病に関する記述が数多く残されています。
しかし当時の乏しい医学的知識では、ハンセン病の原因も治療法もわからないまま、患者たちは症状を悪化させるばかりでした。
人々はそれを天の罰や呪いなどの誤った解釈で信じ込み、感染を恐れて患者たちを強制的に隔離したのです。
日本でも8世紀の『日本書紀』にハンセン病の記述があり、浮世絵の中に患者の姿が描かれたりしています。
日本で特に有名なハンセン病患者は、戦国時代の武将である「大谷吉継(おおたに・よしつぐ)」でしょう。
大谷吉継は豊臣秀吉の家臣として活躍し、のちに関ヶ原の戦いに散った武将ですが、ハンセン病(当時は業病と言われていた)に感染し、容姿がひどく変貌していたと伝えられています。
一説では頭巾を被らなければならないほど顔の皮膚が崩れ落ちていたという。
それゆえに周囲の人々は吉継を忌み嫌い、避けるようになっていました。
その中で唯一、変わらぬ態度で吉継と接し続けたのが「石田三成」です。
1587年に大阪城で開かれた茶会の席に、豊臣の武将たちが招かれたときのことでした。
会合では茶碗に入った茶を一口ずつ飲んで次の者に回すしきたりがありましたが、このとき、武将たちは吉継が口をつけた茶碗を嫌い、飲むふりだけして次に渡していました。
吉継も武将たちの行動に気づいていたといいます。
ところがその中にあって三成だけは普段と変わらない様子で平然と茶を飲み、吉継にも気軽に話しかけたのです。
それに感動した吉継は以来、三成と堅い友情で結ばれることになりました。
その後、1873年にノルウェーの医師であるアルマウェル・ハンセンが原因菌である「らい菌」をついに発見します。
正式に「ハンセン病」と呼ばれるようになったのはこの頃からです。
これ以来、ハンセン病の研究は急速に進展し、1943年にはアメリカでハンセン病に有効な「プロミン」という薬剤が開発されます。
さらに1981年にはハンセン病の最善の治療法も確立され、「ハンセン病は完全に治る病気である」とWHOが認定しました。
また現代の医学的知識からすると、そもそもハンセン病は「最も感染力の弱い感染病」であり、患者から感染する可能性もほとんどないという。
もし感染したとしても、初期治療で容易に対処できるものになっています。
他方で、ここまで進んでいながら、実はハンセン病を引き起こす「らい菌」がどのような経路でヒトに感染するのかはいまだによくわかっていません。
その中で今回、研究チームは中世イングランドで流行したハンセン病の宿主が「キタリス」であった可能性を見つけたのです。