なぜ薩摩藩だけ変わった教育法になったのか?
それではどうして薩摩藩ではこのような特殊な教育方法が生まれたのでしょうか?
それは薩摩藩において、兵農分離があまり進まなかったことが理由です。
というのも江戸時代の大名は安土桃山時代や江戸時代初期に初めてその土地を与えられて大名になったというパターンが多く、そうでない大名も豊臣政権期や関ヶ原の戦い後に転封(領地を他に移すこと)をしたものがほとんどでした。
※転封という言葉に馴染みのない人もいるかもしれませんが、これは大名が治める領地を命令により引っ越すことを指します。代表的なものは徳川家康で、秀吉の命令により三河(愛知県東部)から関東に所領を移しています。
それに対して薩摩藩は一貫して島津家が統治を続けており、転封によって武士と土地が切り離されることがなかったのです。
それにより兵農分離があまり進まず、諸藩では豪農などとして扱われることにより武士の身分から外れたような立場の人たちまで武士としてカウントされていました。これにより武士の数は他の藩と比べて圧倒的に多かったのです。
もちろんそういった理由で武士にカウントされている人たちは、藩士としての給料だけでは生活することが困難だったので、農業などを営んで何とか生活していました。
ちなみに他の藩では人口内の武士の割合はせいぜい5パーセント程度であったのに対し、薩摩藩は人口の25パーセントが武士だったのです。
それ故薩摩藩の武士はかなり農村内の風習を色濃く残すこととなり、当時農村で行われていた若者組(一定の年齢に達した地域の青年を集め、地域の規律や生活上のルールを伝える習慣)の武士版として郷中教育が行われるようになったのです。
このように生まれた郷中教育ですが、幕末になると特色を大きく変えます。
欧米列強からの開国要求や商品的経済の発展による制度のひずみなどにより、日本中で新しい国の形について模索する動きが起こっており、それは薩摩藩の中でも起こりました。
そういった動きは郷中にも伝わっており、郷中教育は地域閉鎖的で自己完結的な武士の教育組織から地縁による武士の若者組組織という扱いになったのです。
時代のトレンドをいち早く取り入れることが出来たのは、指導者も柔軟な思考力を持っていた若者であったことが一因とされています。
それにより郷中教育で行われている学びは、武士として学ばなければならないことを身につけるための学びから、外の知識を積極的に見につけていく学びへと変わっていったのです。
幕末の薩摩藩では西郷隆盛や大久保利通をはじめとする傑物を多く輩出するようになり、彼らが原動力となって明治維新を成し遂げました。
このような郷中教育は、薩摩藩士の強い団結力や高い道徳観を育む基盤となり、幕末から明治維新にかけての薩摩藩のリーダーシップにも影響を与えたのです。