第3代ローマ皇帝に!群衆のヒーローとなる
カリグラはティベリウスの元で6年間を過ごす中で、徐々に信頼を勝ち得ていきました。
33年には、ティベリウスからクァエストル(財務官)という高い地位も与えてもらっています。
そして西暦37年3月16日、ティベリウスが77歳で死去すると、その後釜としてカリグラとティベリウスの孫であるゲメッルスが共同統治をすることになりました。
ところがです。
3月28日にローマ入りをしたカリグラの人気は絶大なもので、事実上、彼だけがローマ皇帝として統治する状態になりました。
カリグラはローマ市民から「われらの子」「われらの星」と歓呼の声で迎えられたといいます。
カリグラの即位を祝う式典では、3カ月にわたり16万匹を超える動物が生贄に捧げられたという。
しかし、まだ何の功績も残していないカリグラがなぜこれほど人気だったのでしょうか?
そのワケはとりもなおさず、ティベリウスの不人気の裏返しから来るものでした。
ティベリウスは晩年、表舞台から田舎に引っ込み、ローマ市民の前にはまったく姿を現さなくなりました。
その上、彼の厳しい緊縮財政から剣闘士(グラディエーター)の試合や競技会など、庶民の娯楽だった催しの予算を大幅に削減したことでローマ市民の不興(ふきょう)を買っていたのです。
とにかくティベリウスは不人気で、彼の訃報にローマ市民はやんやの大喝采を送ったといいます。
その孫であるゲメッルスも当然、ローマ市民から支持されることはありませんでした。
これに対して、カリグラはローマ市民から絶大な人気を誇っていた初代皇帝アウグストゥスのひ孫に当たります。
彼の血を引き継いでいることから、カリグラだけが市民から圧倒的な支持を受けるに至ったのです。
こうして第3代ローマ皇帝となったカリグラは、政策の面でも寛大な姿勢を取りました。
兵士に賞与を支給したり、ティベリウスによって作成された反逆罪に関する書類を破棄して、国外に追放されていた者たちの帰国を促したり、重税で苦しい思いをしていた市民を保護したり、剣闘士による試合を復活させたりしました。
アレクサンドリアの哲学者フィロンは、その時期のカリグラについて「即位してから最初の7カ月間はまったくの幸福に満ち溢れたものだった」と書き残しています。
まさにカリグラはローマ市民にとってのヒーローでした。
ところがある事件をきっかけに、まるで別人のごとく豹変してしまうのです。