「いのちだいじに」のイエズス会、「ガンガンいこうぜ」のフランシスコ会
大航海時代、宣教師たちは世界中に宣教をするために向かいましたが、現地の言葉や習慣についてあまり知っていなかったということもあり、その旅路は決して安全なものではありませんでした。
当然警備も医療も万端ではなく、それゆえ志半ばで宣教中に命を落とす宣教師は決して少なくなかったのです。
そうして亡くなった宣教師たちに対してイエズス会はできるだけ殉教という言葉を使わず、「喜ばしき死(felice morte)」や「聖なる終焉(sainte fin)」という言い回しで表現しました。
これは宣教中に命を落とした宣教師を容易く殉教者と扱うことによって、宣教師が殉教のために死に急ぐことを防ぐためであるといえます。
また日本において、イエズス会は他の地域以上に殉教者を出すことを防ごうとしていました。
と言うのも日本の布教活動で大きな役割を果たしたイエズス会のヴァリニャーノは日本人について「全く死を畏れていない」と考えており、もしキリスト教徒が迫害されるような状況になってしまったら、多くの日本人信徒が信仰のために喜んで死ぬことになるだろうと予想していました。
それゆえ一度宣教師が殉教という形で命を落としてしまう前例ができてしまえば、そのムーブメントがたちまち広がると考えていたのです。
当然そのようなことになってしまえばキリスト教徒のコミュニティは壊滅してしまうため、日本国内においてキリスト教を布教したり信仰を維持したりすることができなくなり、「日本国内にキリスト教を広める」というイエズス会の目的は果たせなくなります。
それゆえイエズス会は布教を行いつつも、宣教師や信徒の身の安全には細心の注意を払っていました。
一方同じく日本での布教を進めていたフランシスコ会はイエズス会とは真逆であり、殉教者を出すことを全く恐れていませんでした。
ヴァリニャーノによれば、フランシスコ会の宣教師はあえて豊臣秀吉を挑発するような行動をとっていたとのことであり、それゆえフランシスコ会はイエズス会よりも厳しい取り締まりを受けることとなっていたのです。
また秀吉に逮捕されて長崎で処刑されることの決まった宣教師の中には近いうちに自分が「殉教」することを強く意識してそれを希望するような書類を自ら残しているものや、「キリストのように十字架上で死ねるという奇跡は古の聖人にもまさる機会である」と殉教者として死ぬことを喜んでいる書類をしたためたものまでいます。
ここまでフランシスコ会が殉教者を肯定的にとらえていたのは、修道会の中で聖人信仰が強く行われていたことが理由とされています。
なおフランシスコ会の内部で信仰される聖人はごく一部を除いて殉教者であり、それゆえ宣教師たちは「殉教者として死ぬことは、聖性を手に入れて聖人になるための近道である」と考えたのです。