江戸に入って三階建ての建物が建てられるようになるも、すぐに禁止
日本の都市は、昔から平面的に広がることが多く、積層して建物を建てるという発想はなかなか根付きませんでした。
たとえば京都などでは広大な都市計画が存在したものの、計画に見合うだけの人口が集まらなかったこともあり十分に土地利用が進まず、それゆえ立体化して多くの人が住めるようにするという動機はあまり生まれなかったのです。
鎌倉時代や室町時代においても、都市中心部での高度利用はあまり見られず、それゆえ都市部の中心に住むことのできない町人は郊外に住まいを求めていました。
安土桃山時代に入ると、宣教師たちは南蛮寺という教会を京都に建設する際に、土地不足を解消するため住居併設の三階建ての建物が計画しました。
しかし住民は、伝統的な生活様式に反するという理由で反発しており、市の立体化には、物理的な制約だけでなく、文化的な抵抗も根深かったことが窺えます。
江戸時代に入って江戸の開発が進むと、この状況は変わります。
日本橋の一帯にて、裕福な商人たちがこぞって三階建ての町屋を構えたのです。
その豪壮な姿は、江戸図屏風にもしっかりと描かれています。
しかし、この三階建ての三階部分は単なる見栄の象徴であったらしく、実際に住宅や倉庫、あるいは物見台として使われたかは定かではありません。
そんな中1650年、幕府は商人に三階建て以上の建築を禁止しました。
江戸は火事が頻繁に起こっていたこともあり、防災目的であると捉えられることも多いですが、これは火事を恐れての防災目的ではなく、むしろ商人の贅沢を防ぐための身分制によるものだとのことです。
というのも当時の商人の立場はあまり高くなく、それゆえこのような立場の商人が過度な贅沢をすることについてあまり好ましく思わない人も多かったのです。
またこの建築禁止令はあくまで新規の建築を対象としており、先述した日本橋一帯の三階建ての町屋は特例として残り続けましたが、これらは1658年に発生した明暦の大火で消滅してしまいました。
こうして、江戸の町では庶民による多層建築が徐々に姿を消し、幕末に至るまでその規制は厳格に守られ続けたのです。
結果、都市の発展や技術革新を抑え込む形で、江戸の風景は平坦なものに固定されてしまったのです。