ビームに100時間貫通され続けても無傷な壁
多くの人は、「高速ビームを薄い膜に当てたら、すぐに穴だらけになるのでは?」と考えるのではないでしょうか。
私たちがイメージする“高速ビーム”と言えば、工場のレーザー切断機や粒子加速器など、強力なエネルギーで何かを削ったり壊したりする装置を思い浮かべるものです。
あるいは、SF作品に登場するビーム兵器を思い描くかもしれません。
そのうえ、膜がわずか1原子の厚さしかなければ、「一瞬で壊れてしまうだろう」と想像するのは自然なことでしょう。
実際、古典的な考え方では「大きな運動エネルギーを持つ物体が薄い壁に衝突すれば、壁を粉々にして突き抜ける」と考えられています。
ボールが窓ガラスを割るのと同じイメージで、エネルギーが大きいほど“より細かく砕いて突破する”というわけです。
ところが今回の実験では、そんな「壊れそうな超薄膜」が壊れないまま高速ビームを透過させる現象が確認されました。
しかも、単に無傷というだけではなく、“回折パターン”という量子力学ならではの足跡までも観測されたのです。
「なぜこんな不可思議が起こるのか?」――その答えは、大きく分けて2つの異なる現象にあるといいます。
1つ目は量子力学的な視点です。
「原子がどこを通ったか確定されなければ、壁は壊れず、波としての性質を失わずに干渉を起こす」という考え方です。
もしグラフェンの壁に大穴が空くような破壊が起きれば、飛んできた原子の通路が確定してしまい、量子力学的な干渉は起こらなくなります。
つまり、グラフェンを“こっそり”通過することで、経路が不確定なまま回折が起こせるわけです。
研究者たちはこの現象を「高いエネルギーでドアが開く部屋に素早く入り込み、どのドアを通ったのか分からない状態で抜ける」とたとえています。
原子が高速で壁に衝突したときだけドアが開き、結果としてスムーズに通過できるというわけです。
実際、原子の速度を落とした場合には、衝突部位がはっきりしてしまい、壁の向こうに量子力学的な回折パターンが観察されない、あるいはそもそも通過できないことが確認されています。
2つ目の視点はやや古典寄りの発想で、グラフェンが持つ高い強度と、衝突が極めて短時間で済むことにより、壁を壊すほどのエネルギーを伝える“余裕”が生じないという説明がなされています。
1原子層とはいえ炭素結合は驚くほど頑丈で、“鋼鉄より強いスパゲッティ”のように高い張力を持つのです。
そうやって、普通なら「壊されて当然」と思われがちな超薄膜でも、量子の世界では「どこを通ったか分からない」高エネルギーの原子をスルッと通してしまう——そのことが今回の現象をいっそう興味深いものにしています。
調査に当たってはまず、水素(H)やヘリウム(He)の原子を数百~1600 eV(電子ボルト)という比較的高いエネルギーまで加速できる装置を用意しました。イメージとしては、高電圧をかけて電子(あるいは原子)を飛ばすようなものです。これにより、原子は非常に高い速度を獲得します。
(※なお、実際には粒子をイオン化したあと、途中で電荷を中和して「電荷0」の状態にする調整も行います。)
次に用意されたのが、炭素原子がハニカム(蜂の巣)状に並ぶ「グラフェン」です。
先に述べたようにグラフェンの炭素結合は予想以上に強固で、その強度は鋼鉄の200倍にも達します。
三次元方向への剥がれにはやや弱いものの、シートとしては抜群の強度を誇るのです。
実験では、このグラフェンを薄い枠組みで支え、中央部分に高速ビームを照射できるようにしました。
そして、その背後にはスクリーンを設置し、「原子がどのような状態で通過しているのか」(粒子なのか、波なのか)が確かめられました。
結果として観測されたのは、ただ一点に集まる粒子のスポットではなく、なんとリング状に広がる“回折パターン”でした。
回折とは、もともと波が狭い隙間や障害物を通過するときに起こる現象で、水面の波が堤防の隙間を抜けたあとに円形状に広がるイメージに近いものです。
グラフェンの結晶構造と原子の干渉により、ランダムな向き(多結晶の場合)ごとに異なる回折角度が生じます。
その結果、スクリーンには「デバイ・シェラーリング」と呼ばれる同心円状のリングが複数映し出されるのです。
これは有名な二重スリット実験で見られる干渉パターンと似た性質を示します。
このリングが意味するのは、「グラフェンを通り抜けた原子が、波として振る舞っている」ということ。
もし単なる飛び道具のように直進するだけなら、スクリーン上にはビーム形状の点や円が1つ映るだけで終わるはずです。
複数のリングが現れたという事実は、原子同士が干渉し合い、波動的に広がっているという確かな証拠といえます。
さらに、研究チームは原子を**数百~1600 eV(keVオーダー)**という、かなり高いエネルギー領域まで加速しました。
イメージとしては、小石を投げるのではなく、大砲で弾丸を撃ち出すような勢いです。エネルギーが高いほど原子の「運動量」も大きくなり、それに伴って回折パターン――つまりスクリーンに映るリングの大きさ(半径)も変化していきます。
ある程度エネルギーが大きくなると、リングが1本では終わらず、2本、3本…と次々に増えていく現象が見られました。
これはグラフェンと原子が非常に大きな力(運動量)を交換していることを示しています。
なかには最大8次の回折ベクトルが観測されたという報告もあり、従来の原子回折実験と比べても“飛び抜けて強烈”な運動量変化が起きているわけです。
例えるなら、花火が一重、二重、三重と連続して弾けるように、エネルギーが上がるにつれてリングの層が増えていくイメージでしょう。
そこには原子が「まるで波のように」広がりながら、グラフェンとの間で大きな衝撃(運動量)をやりとりしている様子が映し出されているのです。
もうひとつ注目すべきポイントは、普通なら1原子層のグラフェンが耐えられないほど高速なビームを100時間も照射し続けたにもかかわらず、グラフェンにはまったく損傷が見られなかったことです。
もちろん、さらに高いエネルギーや特別な照射条件になれば、破壊が起きる可能性は否定できません。しかし、少なくとも本研究で使われたエネルギーレベル(数百~1600 eV)では、グラフェンが想像を超える耐久性を示したというわけです。
しかし、なぜこのような奇妙な結果になったのでしょうか?
次は、いよいよ「なぜ壊れないのか?」――量子力学と古典物理の両面から、その仕組みを見ていきたいと思います。