幸せになりたい人は「幸せそのもの」を目指してはいけない

幸せのパラドックスの背景にある自己コントロール資源の枯渇は、私たちに「幸福の追求」という行為を再考すべき大きな示唆を与えています。
まず言えるのは、「幸せを目指すな」という極端な主張ではなく、目標としての「幸せ」を掲げるのではなく、「すでにあるもの」に目を向け、そこから楽しみや感謝を見出す姿勢が重要であるということです。
意図的にポジティブな感情を得ようと奮闘するよりも、目の前の生活や人間関係を受容し、今ある資源を味わう――いわば「肩の力を抜く」ことが、結果として持続的な幸福につながる可能性が高いと考えられます。
一方、近年のセルフヘルプ産業は「こうすればすぐ幸せになれる」というメソッドを大量に生み出し、その中で「あなたの幸せはあなた次第」とのメッセージを発信しています。
もちろん、自分の力で幸福を築く前向きさは悪いことではありませんが、過剰な楽観や過度な責任感は意志力を消耗させ、逆に幸福感を損なうリスクがあります。
また、SNSをはじめとしたメディア環境も、より優れた「ハッピーライフ」をアピールし合う構造を促しており、われわれが「幸せ競争」に巻き込まれやすい状況を生み出しているのです。
このような社会的・文化的背景が、幸せを目指す人々をさらに疲弊させる原因となっている可能性は否めません。
また、文化的要因にも目を向けると、個人主義的な社会では「自分の幸せは自分でコントロールすべきである」というプレッシャーが一層強まりやすいです。
一方で、集団主義が色濃い文化圏では「共同体の調和」や「みんなと幸せを共有する」という価値観が優先され、自分を過度に追い詰める必要が少なります。
今後は、国や文化圏ごとに「幸せを願うリスク」の度合いがどのように異なるのかを探る研究が進められることが期待されます。
「幸せの追求」そのものが無意味であるというわけではありません。
大切なのは、幸福を目的として身を粉にするのではなく、結果として訪れるものとして受け止める姿勢です。
人や物とのつながり、日常生活のささいな喜びを味わうことこそが、意志力を過度に消耗することなく、持続的なウェルビーイングを支える鍵となるでしょう。
研究チームが提唱する「Just chill.(リラックスして)」というメッセージは、一見シンプルですが、現代社会において失われがちな「ほどほど」の感覚を取り戻すための重要なヒントとなるでしょう。
仏教がとうの昔に出した結論にようやく追いついたわけですね。
足るを知る、という言葉は思っている以上に本質的な格言なのかも
そもそも幸せには2種類あるという(古代ギリシャのソクラテスの時代から繰り返し言われている)視点が欠けていると思う。
欲望による幸せを求めれば(思いどおりにならず=この記事でいう意志力を消費し)不幸になるのは当たり前だ。
もう一つの善いことを行う幸せ(善い解釈、善い行い、善さを求める)しか確実なものはない。
ソクラテスの有名な「ただ(欲望に従って)生きるのではなく、善く生きよ」に既に答えが示されている。
スマホがない時代の方が幸せだったかも
意味わからん。チョコを多く食べることが不幸せなことなのか?パズルを長くとかことが幸せなことなのか?
そもそも、自己抑制=幸せという曖昧な定義の根拠は?マシュマロテストですか?
幸せになるために多くのチョコ食べ、意味のないパズルを早々とやめた。
それだけのこと。