謝罪の気持ちが変わる仕組みと例外
この傾向をさらに裏づけるため、研究者たちは531人を対象に、もう一つの実験を行いました。
こちらでは、参加者に過去の過ちを思い出してもらったうえで、「神がその過ちを赦した」と想像するように誘導されたグループ、「赦されなかった」と考えるよう促されたグループ、そして何も言われなかったグループの3つに分けました。
その後、全員に自己の赦しや感謝、謙虚さの度合いを尋ね、さらに被害者に宛てたメールを書いてもらいました。このメールを、参加者の背景を知らない評価者が読み、謝罪の有無や誠実さ、後悔の表現の強さを判定しました。
結果として、「神に赦された」と感じたグループの多くは、謝罪の意欲が他のグループよりも明らかに低くなる傾向が示されました。
これは、神の赦しによって罪悪感が軽減されることで、心理的な「けじめ」がすでについたと感じてしまい、被害者に対する償いや謝罪の必要性を感じにくくなるためと考えられます。
もちろんすべての人がそんな反応をしたわけではありません。一部の参加者では赦されたことによって感謝や謙虚さが高まり、それが謝罪の動機を高めるケースもありました。
しかし、それはごく限られた反応にすぎません。大勢の傾向としては、神に赦されたと感じることが、他者への謝罪という対人的な責任感を弱める方向に働くという作用が見られたのです。
この結果は、宗教的な赦しが常に人間関係の回復を促すとは限らないこと、そして個人の心の平安と、他者への償いとの間にズレを生む可能性があることを示唆しています。
神を見て隣人を見ていない…

この研究結果は、キリスト教文化圏であるアメリカのネット上でもさまざまな反響を呼んでいるようです。
海外掲示板のRedditでは、「自分の元恋人が不誠実な行動をしておきながら、教会で懺悔しただけで済ませていた」という体験談を語るユーザーも現れ、多くの共感を集めています。
宗教はままならない現実の問題に対して、救いを与えてくれます。けれど、そこに安心を求めすぎてしまうと、「神に謝ったから、それで終わり」と、自分に都合よく解釈してしまうことがあるかもしれません。
こうした問題はなにもキリスト教徒でなくても心当たりのあることでしょう。
もちろん、心の平安を得ることはとても大切です。でも、誰かに謝るべきことがあるなら、その「ごめんなさい」は神様ではなく、その人自身に伝える必要があるのかもしれません。
神が赦してくれても、あなたの隣にいる誰かは、まだその一言を待っているかもしれないのです。
誤解させたなら申し訳ない、適切だったとか連発できる人の強メンタルとはまた別ロジックだろうけど熱心でなくてもキリスト教文化圏の行動例としてあるある…