日本ではなぜ、まだこうした制度が根付いていないのか?

今のところ、日本には「投票率が上がれば、民意が比較的まっすぐ政治に届く」という希望があります。制度上も、構造上も、それを妨げる障壁はアメリカほど強くはありません。
ただそれでも、選挙活動における資金の力は無視できません。
選挙にはポスターやチラシ、街宣車の手配、インターネット広告、演説会場の設営、人員の動員など、知名度と訴求力を高めるための“広報戦*が必要不可欠です。資金がある候補は、こうした活動を何倍もの規模で展開できます。
つまり、より多くの人に“名前”と“メッセージ”を届ける力があるかどうかが、当選の土台を左右するというわけです。
組織や派閥から支援を受ける候補は、こうした選挙戦をより効率的に、かつ広範に展開できます。また資金支援に加え、後援会の人員動員、地元の業界団体とのパイプなど、選挙の“勝ちパターン”を持っているのです。
一方で、政党に属さない新人候補や、派閥に依存しない若手候補は、資金力・組織力の面で不利な状況に置かれやすくなります。
このような環境下で投票率が低いとどうなるか。
「動員力のある組織」が投票結果を大きく左右する割合が高まります。20%の組織票でも、投票率が40%なら得票の半分に迫ります。つまり、“一部の組織の声”が、“全体の民意”を凌駕してしまう構図が生まれるのです。
その結果、政治家たちは国民全体よりも、特定の組織、団体、派閥の利益を優先するようになり、社会全体の公正さと透明性はどんどん損なわれてしまうのです。
こうした環境で育つ若い政治家たちは、「国民全体のために働く」という本来の使命感を失い、「派閥に忠誠を誓う」「組織に恩返しをする」ことが政治の目的になってしまいます。
以前、麻生太郎元首相が「(政治に)無関心で、投票に行かずに家で寝ていてくれればいい」という発言をして物議を呼んだことがあります。
これについては麻生氏が、自身の属する勢力にとって有利な状況を望む本音が、つい口をついて出たのか、彼特有の皮肉だったのかわかりませんが、この言葉は投票に行かないことが結果的にどういう意味を持つかを、逆説的に警告しています。
組織票というのは基本的に“絶対数”が変わらないところに強みがありますが、逆に言えば投票率が上がれば、“全体に占める割合”が下がり、その力は薄まります。
たとえば20%の組織票があっても、投票率が70%になれば、その比率は3分の1以下に落ちます。その結果、組織以外の声、つまり無党派層・一般市民の投票が政策決定への影響力を取り戻すのです。
なので投票率の低下は、組織票を持つ勢力にとって追い風になります。
これはある意味民主主義の落とし穴にもなっていて、例えば、パーティー券を利用した派閥の裏金問題など、政治家の金銭スキャンダルが問題になったとき、問題の政党が失脚するどころか逆に追い風を受けてしまう場合があるのです。
多くの国民が政治に失望したり、不信感を抱くような不祥事が頻繁に報道されるようになってくると、多くの国民は政治への信頼を失っていきます。
それが「政治家なんてみんな汚れている」「どうせ誰がやっても同じだ」という無力感として広がり、投票率が低下します。
すると、組織票を動員できる団体や企業の影響力が相対的に強まるため、それらの支援を受ける派閥が当選しやすくなってしまうのです。
もし不正問題などがあってニュースで糾弾されている政治勢力が、縮小するよりむしろ勢いを増しているように見えた場合、その裏にはこうした力学が潜んでいるのかもしれません。
アメリカの制度問題や、日本の投票率の低さが引き起こす未来への問題提起は仰る通りだと思います。
一方でもう少し深掘りし、アメリカの「66.8 %」が本当に高い数値なのか?日本の投票率が「低い」とされる原因はなにか?に問題があると思います。
総務省の統計によると、1946年〜1993年までの衆院選で投票率が「65 %」を下回った選挙は1度もありません。
ところが1996年以降は低迷を続け、65%を超えた回は2回しかありません。
https://www.soumu.go.jp/senkyo/senkyo_s/news/sonota/ritu/index.html
何があったのでしょうか。
色々な要因が考えられますが、私が考えるに「比例代表制」の導入(1996年)が大きな要因であると考えます。
比例代表制の説明は割愛しますが、ここで問題となるのは「比例代表」いわゆる「ゾンビ議員」の蔓延です。
現在の日本の選挙制度では「当選してほしく無い」候補でも、政党の匙加減ひとつで当選させる事が実質できてしまい、民意を反映しづらい制度となっています。
私はここに、日本の投票率の低さの原因があると考えています。
どちらかというとアメリカの民主主義こそが本来の民主主義なのだと思いますけどね。