VRで異性になりきったら心に何が起きる?

ルチフォラ氏らの研究では、20代の男性36人が被験者となりました。
全員がVRゴーグルを装着し、一人称視点で女性の身体を動かせるように設定されています。
仮想空間のシナリオは二段構えです。
まず最初のシーンでは、参加者は自分が女性になった姿を鏡に映して確認します。
現実の自分の動きに合わせて、鏡の中の女性アバターも手足を動かし、まるで自分が本当に女性の体を得たかのような錯覚を起こさせます。
次のシーンでは、場所が地下鉄のホームに切り替わり、参加者の周囲に男性アバターが3人現れます。
ここで実験群では、男性アバター達が順に「ねぇ、どこ行くの一人で?」「おい、なんでもっと笑わないの?」といったセクシャルな絡み方をしてきます。
一方、対照群では「すみません、今何時ですか?」など当たり障りのない質問をするだけで、嫌がらせはしないよう設定されました。
このようにして、ただ見知らぬ男性に話しかけられる状況と、明らかに性的ないやらしい声かけをされる状況との違いを比較したのです。
(※研究チームはこの世界を作るのに Oculus Quest 2 と Unity Engine で独自にシナリオを構築しており、アセットとしては Unity Asset Store の「Basic Bedroom Pack」と「Urban Underground」を組み合わせて作っています)
結果は顕著でした。
男性たちは、性的な声かけを受けたグループでは、VR体験後の自己申告で「怒り」や「嫌悪」の感情が有意に強まっていました。
これらの感情は、倫理的に「それは許せない」という道徳的嫌悪感に分類されるものです。
一方で恐怖についてはどちらのグループでも増加傾向が見られ、声かけ群の方がやや高かったものの統計的な有意差はない程度でした。
研究チームは、地下鉄という環境自体が多少不安を誘うため、恐怖はハラスメント特有の反応とは言えなかった可能性を示唆しています。
興味深いのは、性的な声かけを受けた男性たちの行動にも変化が見られたことです。
ハラスメントシーンでは、なんと94%の参加者が男性アバター達に一切返事をせず無言でやり過ごしました。
屈辱と嫌悪で固まってしまい、関わり合いを避ける回避行動に出たのです。
それに対し、対照シナリオでは半数以上の男性が普通に話しかけに応じました。
さらに注目すべきは、VR体験後のインタビューで彼らが語った言葉です。
参加者たちは自分の感じたことを自由に語りましたが、AIを用いた文章分析によって、その内容にはいくつか共通するテーマがあると分かりました。
例えば、多くの男性参加者が「とにかく危険を感じた」「すぐその場を離れたくなった」といった安全への渇望を語り、「女性だから身を引いた。もし自分が男性なら言い返していただろうに…」というように無力感や悔しさも表現しました。
ある参加者は「安全な場所に逃げ込みたかったが、一人になるのはもっと危ないと感じた」と葛藤を語っています。
また別の参加者は「怒りの感情が自分の中でわき起こった」とも述べ、理不尽な扱いに対する強い怒りを覚えたことが窺えます。
このように、VR内での擬似体験にもかかわらず男性たちは現実さながらの恐怖・怒り・無力感を覚え、被害者としての視点で物事を考え始めたのです。
それは単なる同情ではなく、「自分が屈辱を受けた」という切実な実感でした。
研究チームはこれらの結果について、怒りや嫌悪といった感情はモラルな気づきを促すトリガーになりうると述べています。
普段はハラスメントと無縁だった男性でも、自分が被害者になれば「こんな行為は許せない」「自分はなぜ何もできなかったのか」と内省し、道徳的な自己認識が高まる可能性があります。
VRはまさにその気づきのきっかけを作ったと言えるでしょう。
参加者の一人は体験後、「女性への声かけがこんなにも怖いものだとは思わなかった。現実でも困っている女性がいたら助けたい」と語ったそうです。
これらの例から分かるように、VRで他者の立場になりきる体験をすると、人は一時的とはいえその立場の心理や行動様式を擬似的に身に着けてしまいます。
まさに「外見が変わると心まで変わる」という現象が確認できたのです。