ヤスデ毒はアリを混乱させる一方人間の痛みを癒す可能性を秘めている
ヤスデ毒はアリを混乱させる一方人間の痛みを癒す可能性を秘めている / Credit:川勝康弘
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ヤスデ毒はアリを混乱させる一方人間の痛みを癒す可能性を秘めている

2025.07.29 18:00:59 Tuesday

アメリカのバージニア工科大学(Virginia Tech)で行われた研究によって、森にひっそりと暮らすヤスデが分泌する毒の中から、敵であるアリの動きを停止させ、一時的に混乱させる特殊な化学物質が発見されました。

さらに興味深いことに、この毒物質は人間の神経細胞に存在する「シグマ1受容体」と呼ばれるタンパク質にも作用し、慢性的な痛みや神経疾患の治療薬として役立つ可能性を秘めているというのです。

しかしなぜ同じ毒がこうも異なる効果を発揮するのでしょうか?

研究内容の詳細は2025年7月17日に『Journal of the American Chemical Society』にて発表されました。

The Discovery of Complex Heterocycles from Millipede Secretions https://doi.org/10.1021/jacs.5c08079

毒から薬へ—ヤスデが持つ「テルペノイドアルカロイド」の秘密

毒から薬へ—ヤスデが持つ「テルペノイドアルカロイド」の秘密
毒から薬へ—ヤスデが持つ「テルペノイドアルカロイド」の秘密 / Credit:川勝康弘

ムカデやヤスデというと、どちらも足がたくさんあって似たような生き物に見えるため、多くの人が気味悪がったり混同してしまったりすることが多いかもしれません。

しかし実際には、ムカデとヤスデはまったく異なる生き物なのです。

攻撃的なムカデは噛みついて相手を攻撃しますが、ヤスデはおとなしく、人を噛んだり刺したりすることはほとんどありません。

その代わり、身を守るためにさまざまな化学物質を体から放出する独特の防御策を進化させてきました。

実はヤスデのように、敵から身を守るために化学物質を使う生き物は珍しくありません。

北米に生息するヤスデの一種(Harpaphe haydeniana)は、敵に襲われると青酸(シアン化水素)という強いを体から出します。

こうした毒を放出することで、敵はその強い匂いや刺激を嫌がり逃げ出してしまうのです。

一方で、ヤスデの仲間には青酸ではなく「テルペノイドアルカロイド」という特別な化合物を使って防御するグループもいます。

この「テルペノイドアルカロイド」とは、窒素を含む有機化合物(アルカロイド)の中でも、特に植物や動物が進化の過程で生み出した複雑な化合物群を指します。

モルヒネやニコチン、カフェインなど、人間に強い作用を及ぼす化合物もアルカロイドの仲間ですが、ヤスデの持つテルペノイドアルカロイドはさらに複雑で珍しい構造をしており、非常に強い生理作用をもつことが多いのです。

これまで、毒や強い作用をもつアルカロイド類は新しい薬の元となることも珍しくありませんでした。

たとえば海に生息するイモガイという巻貝の神経毒から鎮痛薬が開発され、アメリカドクトカゲの毒から糖尿病の薬が生まれた例もあります。

こうした動物が作り出す特殊な化学物質は、生き物が外敵や環境に適応する過程で進化の中から磨き上げてきた「自然の薬庫」といえるでしょう。

しかし、ヤスデが作る化学物質については近年までほとんど研究が進んでいませんでした。

ヤスデの作るアルカロイドについて知られていたのはごく一部の種類からわずか3種類ほどで、特定の仲間(Polyzoniida目)のものだけでした。

ところが、ここ数年の研究で状況は大きく変化しました。

より多様なヤスデ(Platydesmida目など)が調べられるようになり、それまで知られていなかった多様で珍しいテルペノイドアルカロイドが次々に見つかったのです。

なかには他の動物が持たないような極めて珍しい化学構造のものもあり、ヤスデがこれほど化学的に多様な防御システムを進化させてきたことに、研究者たちも驚きを隠せませんでした。

このような背景から、「未知のヤスデから新しい薬になる可能性を秘めた物質を見つけ出そう」という動きが高まっています。

特に研究者たちが注目しているのが、シグマ1受容体という神経細胞に存在するタンパク質です。

シグマ1受容体は人間の脳や神経細胞の中で、痛みの信号伝達や神経細胞の働きを調節する役割があると考えられています。

この受容体は、慢性の痛みやアルツハイマー病などの神経疾患との関連も示唆されており、創薬の世界では特に注目されています。

実際、今回の研究チームを率いるエミリー・メイヴァーズ博士らは、以前にも別のヤスデ(Ischnocybe plicata)から抽出したアルカロイドがシグマ1受容体に非常に強く結合することを発見していました。

この時に発見した物質(イシュノサイビンA/ischnocybine A)は、シグマ1受容体に選択的に作用し、同じ仲間の別の受容体(シグマ2受容体)よりも100倍以上強く結合するという非常に特異な特性を示しました。

この結果は、ヤスデが作り出す化学物質が人間の神経細胞に対しても強い影響を及ぼす可能性を示しています。

そこで今回研究チームが注目したのが、アメリカ・バージニア工科大学のキャンパス内の森に生息するヤスデ(Andrognathus corticarius)でした。

このヤスデは北米原産のごく小さな種類で、進化的には他のヤスデの仲間から大きく離れた系統を持つ「生きた化石」として知られています。

生きた化石と呼ばれる生物は、何億年もの間大きく姿や生態を変えずに生き残ってきたもので、カブトガニやシーラカンスなどが有名です。

たとえばカブトガニは、太古の昔から姿がほとんど変わらず、その青い血液が現代の医療で細菌検査に利用されています。

このように生きた化石と呼ばれる生物が作り出す化学物質は、太古の環境や外敵との闘いの中で長い時間をかけて磨き抜かれた、特別な進化の遺産なのです。

では、今回研究チームが着目したバージニア工科大学の森に生息する小さなヤスデは、いったいどのような未知のアルカロイドを隠し持っているのでしょうか?

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