なぜ脳は走ると目、止まると耳を信じるのか?

私たち人間をはじめ、動物が何かを判断するときには、目や耳などの感覚器官からの情報が脳に送られ、それらが統合されて決定されています。
しかし、いつでもすべての感覚を同じように扱っているわけではありません。
私たち自身も、周りの状況やそのときの行動によって、どの感覚に集中するかを自然と切り替えているのです。
研究チームは今回、この感覚の切り替えがどのような状況で、脳の中でどのように起きているのかをマウスを使って調べました。
実験で使ったのは、「視覚(目)」と「聴覚(耳)」の情報を両方同時に与える課題です。
マウスは頭を固定されていましたが、床のトレッドミルの上で足を動かして、その場で走ったり止まったりできる状態でした。
マウスは視覚と聴覚の両方から、「進め」または「止まれ」という指示を受け取り、正しく指示に従えば水をもらえ、間違うと軽く空気を吹きかけられました。
実験では、ときどき視覚と聴覚でまったく逆の指示(例えば、視覚が「進め」、聴覚が「止まれ」)を与え、マウスがどちらの情報を信じて行動するのかを観察しました。
この実験でまずはっきりしたのは、マウスが止まっている時と動いている時で、判断に使う感覚がまったく異なっていたということです。
止まっているときには、マウスは耳からの「音の情報」を優先し、約8割の確率で音に従った判断を下していました。
ところが、同じマウスがいったん走り始めてしばらく動き続けると、状況が大きく変わりました。
動き続ける状態では音の情報を優先する割合が5割以下に落ちてしまい、代わりに「目で見た情報」を重視するようになったのです。
つまり、マウスは同じ感覚の情報を受け取っていても、「動いているか、止まっているか」という行動の違いだけで、判断に使う感覚を自動的に切り替えていました。
それでは、なぜこのような切り替えが起きているのでしょうか?
研究チームはこの仕組みを探るために、脳の中にある「後部頭頂皮質(PPC)」という場所に注目しました。
後部頭頂皮質とは、目や耳から届く情報をまとめて判断する働きを持つ、いわば「脳の判断センター」のような場所です。
この後部頭頂皮質の働きを少しだけ弱めると、マウスは目で見た情報をうまく使って判断することが難しくなり、そのぶん音の情報を使って判断する割合が増えました。
これはつまり、普段は後部頭頂皮質が視覚情報を中心にして、マウスの判断をサポートしているという証拠になります。
さらに詳しく調べると、後部頭頂皮質に送られる情報を制御する脳の別の場所が見つかりました。
それは「二次運動野(M2)」という、体の動きに関わる脳の部分です。
実験の結果、この二次運動野はマウスが走り出したときに活発に働きはじめ、後部頭頂皮質に向かって音の情報を送る「聴覚野の一部の経路だけ」を弱めてしまう様子がみられました。
そのため後部頭頂皮質には音の情報が届きにくくなり、視覚の情報が相対的に強くなることで、マウスの判断は自然と視覚優先へと切り替わったのです。
ただし、ここで重要なのは、二次運動野は音の情報を完全に消してしまうわけではないということです。
実際にマウスの聴覚野では、動いている間も音の情報そのものはちゃんと処理され続けていて、「音だけの判断」なら動いている間でも正しくできました。
つまり脳は、走っている間だけ「後の判断に直接影響する音の情報」だけをピンポイントで弱め、他の音は普段通り処理していたことになります。
この二次運動野の働きが本当に判断を切り替えるスイッチなのか、研究チームは念入りに確かめました。
二次運動野が聴覚野に送る「音を弱める信号」だけを人工的に止めてみると、マウスは走っている間であっても再び音の情報に頼って判断するように戻ってしまったのです。
この結果から、「二次運動野から聴覚野への信号」こそが、動き始めた時に感覚の判断を切り替えるスイッチとして重要な働きをしていることが強く示されました。
まとめると、この研究から明らかになったのは、マウスは動き出した瞬間に、二次運動野という脳の中の場所が「聴覚から後部頭頂皮質に伝わる音の情報を一時的に抑える」ことで、視覚の情報を優先した判断へと脳が自動的に切り替わっているという仕組みです。
つまり、脳は自分の行動状態に合わせて感覚の使い方を柔軟に選び分けていることが初めて分かったのです。