シュレーディンガーの猫を「時空のゆらぎ」で解く――時空を量子化しない理論の挑戦
シュレーディンガーの猫を「時空のゆらぎ」で解く――時空を量子化しない理論の挑戦 / Credit:Canva
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シュレーディンガーの猫を「時空のゆらぎ」で解く――時空を量子化しない理論の挑戦 (2/4)

2026.07.07 19:20:33 Tuesday

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重力は「知りすぎて」しまうのか?

重力は「知りすぎて」しまうのか?
重力は「知りすぎて」しまうのか? / Credit:Canva

弦理論でもループ量子重力でもない「第三の道」――そこに至る道は決して平坦ではありませんでした。

その理由は量子力学でおなじみの二重スリット実験とSF的な重力を使った観測でわかります。

たとえばSF映画などでは、エイリアンの宇宙船を重力センサーを使って突き止めるシーンが描かれていますが、これは原理的には正しい話です。

宇宙船には質量があり、質量は周囲の時空を歪ませます。

どんなに姿を隠しても、重力の「足跡」は消せないのです。

では、宇宙船ではなく、もっとずっと小さな「粒子」の場合はどうでしょう?

粒子にも質量があります。

ごくわずかですが、時空を歪ませています。

そのためもし粒子の生じさせる重力(空間の歪み)を精密に測定できるなら、原理的には、粒子の居場所を読み取れてしまうように見えます。

ここでその粒子に対して「二重スリット実験」を行うとどうなるでしょうか?

1つの粒子が両方の穴を通ったかのように振る舞い、何度も実験すると干渉縞が現れますが、重力の測定器では粒子の正確な位置が測定し続けられることになります。

これは深刻な矛盾です。

重力を古典的なものとして扱うと「知りすぎてしまう」ことになり、実際には起きているはずの量子の重ね合わせと、真正面から食い違ってしまうのです。

この矛盾を解く方法が、重力の量子化でした。

もし重力が量子的であれば、重力場の測定にも量子的な不確定性が入り込むので「正確な位置を測定し続ける」ことはできなくなり、量子の魔法は守られるでしょう。

だからこそ物理学者の大多数は、「重力は量子化されていなければならない」と結論してきました。

しかしこの「重力は量子的であるべき」という話には、ある前提がありました。

「粒子の位置が決まれば、時空の歪み方も決まる」というものです。

粒子は質量があり、質量が空間を歪ませ重力として働くのだから、この前提は当たり前すぎて疑う必要性もないように見えます。

しかしオッペンハイムはこの前提に抜け道があることに気づきます。

抜け道の鍵は、重力と粒子とのやりとりに、根本的なランダムさ(でたらめさ)を持ち込むことでした。

空間の歪みは粒子の存在にきっちり従って起こる精密な現象ではないとしたのです。

もちろん、粒子は重力を作り、粒子が集まってできる星も重力を作ります。

でも、そのへこみが粒子レベルの居場所を完全に捉えるほど精密でないとしたら、重力の観測を粒子に行っても、量子の重ね合わせは解けずに済みます。

オッペンハイム教授は、このアイデアを、厳密な数学で裏づけました。

するとそこからは、時間も空間も重さも、消すことのできないランダムなゆらぎを持つという興味深い世界が描かれました。

たとえば私たちはふだん、時間はきっちり等間隔で刻まれると思っています。

ところがこの理論では、言ってみれば、その一刻み一刻みの間隔が、目に見えないほど小さなスケールで、予測できない形でわずかに伸び縮みします。

時間の流れそのものが、細かく”ぐらついて”いるのです。

空間の歪みも同じように、絶えずランダムに揺らぎ、重力も時空に連動してゆらぎます。

シュレーディンガーの猫は時空のゆらぎから解くことができる
シュレーディンガーの猫は時空のゆらぎから解くことができる / Credit:Canva

そしてこの「ゆらぎ」を基本的な量子力学の計算に含めると、量子系で観察される不思議な現象も自然に導き出されました。

その中には、量子系が観測される際にどのように古典系に変化するかという法則も含まれます。

たとえば「シュレーディンガーの猫」は箱の中の猫が、量子力学的には「生きている状態」と「死んでいる状態」の重ね合わせにありますが、箱を開けることで状態が確定するとされています。

さらにこの理論には、思いがけないおまけが付いてきます。

量子の世界では、原子は右と左を同時に通れるのに観測すると、必ず片方に定まって見えるという現象がつきまといます。

粒子だけを見ていても、答えを一つに決める仕掛けがどこにもないからです。

そこでこれまでの量子論は、この現象を「二階建て」で説明するしかありませんでした。

ふだん原子は、誰にも触れられず重ね合わせのまま漂う「第一階」と「観測」という特別なイベントが起きると、そこだけ別ルールが発動して、パチンと一つに定まる「第二階」です。

ただなぜ、観測するとこうなるのかについては、根本的な部分で不明でした。

問題は、その「観測」の中身を、誰もきちんと言えなかったことでした。

人間が見たら観測なのか。

機械が触れたら観測なのか。

どこからが「特別な観測」で、どこまでが「ただの相互作用」なのか。

その線引きが原理的にあいまいなまま、およそ百年ものあいだ棚上げにされてきたのです。

では、その「観測」とは、そもそも何なのでしょうか。

オッペンハイム流の理論は、この謎に、別ルールを付け足さずに迫ろうとします。

カギは、たった一つの問いでした。

「その原子が右にいるか左にいるかで、周りの世界は、どれだけ違う反応をするか?」

これだけです。

原子は、右にいるか左にいるかで、周りの時空にほんの少し違う跡を残します。

そして——周りの世界が「右の原子」と「左の原子」にまるで違う反応を返すほど、重ね合わせは速くほどけて、一つに決まる。

反応の違いが小さいほど、原子はゆっくりとしか崩れず、長いあいだ「両方」のまま漂っていられる。

この物差しで、二つの場面を見比べてみましょう。

まず誰も見ていない原子は右にいても左にいても、周りの世界はほとんど同じ反応しか返しません。

違いがごくわずかなので、崩れはとてもゆっくり。

原子は長いあいだ、右と左の重ね合わせのまま漂っていられます。

いつか崩れるときが来ても、それは遠い未来の話です。

しかもこの理論では、どんなに外界から隔離しても、時空とのやりとりだけは消せません。

だから重ね合わせのほどけは、原理的にゼロにはならないのです。

次は測定器にかけた原子です。

測定器とは、そもそも「原子が右なら針を右へ、左なら針を左へ」と、原子の居場所しだいでまるで違う姿に変わるよう作られた機械です。

しかも測定器は、目に見えるほど巨大な、無数の原子のかたまり。

だから「右のときの姿」と「左のときの姿」の違いは、途方もなく大きくなる。

世界が返す反応が、これ以上ないほどはっきり食い違うのです。

こうなると、原子の「右の顔」と「左の顔」は、もう同時には保てません。

世界じゅうにまるで違う跡を残してしまうから。

だから重ね合わせは一瞬でほどけ、パッと一つに決まります。

つまり——「観測」だけが特別なのではありません。

観測とは、時空とのやりとりがとりわけ強くなり、大きく増幅された状況につけられた”呼び名”にすぎないのです。

風を思い浮かべてください。

そよ風には、いちいち名前などありません。

けれど同じ風でも、冷たく激しく吹きつければ「木枯らし」や「北風」と呼ばれ、人はその訪れをはっきり意識します。

でも、名前がついたからといって、正体が変わったわけではない。

木枯らしも、そよ風も、同じ「風」です。

原子と時空のやりとりも、これとまったく同じ。

弱くて増幅もされないうちは、名前もつかず、ただ静かに続いているだけ。

ところが、そのやりとりが激しくなり、測定器という巨大な塊にくっきりと映し出されたとき、私たちはようやくそれに気づき、「観測」という名前を与える。

特別な出来事が起きたのではなく、いつものやりとりが、名前がつくほど強く現れた——それだけのことだったのです。

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