金星と火星の周期を結びつけた「独自の数式」
壁に残されていたのは、単なる名前だけではありませんでした。
その人物に帰属するとみられる数式そのものも、既知のマヤ文書には見られない独自性を持っていたのです。
この計算には、260日周期の祭祀(さいし)暦、太陽年、金星や火星の周期など、マヤで用いられていた複数の時間単位が登場します。
個々の周期は研究者にとって既知のものでしたが、それらを結びつける方法は、ほかのマヤ文書では確認されていないものでした。
マヤ社会において、こうした天体計算は単なる知的な遊びではありませんでした。
天体の動きに対応する日付は、王や女王の即位式、宗教儀礼、記念碑の建立、建築計画などを決める際に利用されていたと考えられています。
つまり、サク・ターン・ワーシュは、星を眺めるだけの人物ではなく、政治や宗教、都市づくりにも影響を与えうる専門家だった可能性があります。
ただし、彼が壁の数式を自ら書いたのか、別の人物が彼の計算を書き写したのかは分かっていません。
さらに、部下の仕事を自分の成果として示した可能性も否定できず、「本人の直筆署名」とまでは断定できません。
それでも、「この計算はSak Tahn Waaxに属する」と読める記述が残された意義は大きいものです。
私たちはこれまで、マヤ文明の数学を、顔の見えない集団の知識として眺めてきました。
今回の発見によって、その知の背後に、固有の名前を持つ一人の学者が浮かび上がりました。
ピタゴラスやガリレオのように、古代世界の科学はしばしば個人名とともに語られます。
Sak Tahn Waaxの名は、アメリカ大陸にもまた、天体と時間の規則を読み解こうとした高度な学問の伝統が存在したことを、より人間的な形で伝えてくれます。
約1200年前の壁に残された小さな文字は、マヤ文明の偉大な知識だけでなく、それを考えた「一人の人間」の存在を現代に届けたのです。



























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