世界初のX線被曝の犠牲者に
1900年ごろになると、ダリーの手や顔には深刻な異変が現れ始めました。
皮膚には治らない病変が生じ、髪だけでなく、眉毛やまつ毛まで抜け落ちました。
顔には深いしわが刻まれ、特に実験で繰り返し使っていた左手は大きく腫れ、激しい痛みを伴うようになりました。
しかしダリーは、実験そのものをやめるのではなく、左手の代わりに右手を使い始めました。
当然ながら、それは解決にはなりませんでした。
やがて右手にも同じような症状が現れ、両手は焼けつくように痛むようになりました。
夜になると、ダリーは痛みを和らげるため、両手を水につけたまま眠ったと伝えられています。
当時の研究者たちは、X線による皮膚障害については気づき始めていました。
しかし、放射線による損傷が体内に蓄積し、長い時間をかけてがんを引き起こす可能性までは、十分に理解されていませんでした。
ダリーも、しばらく実験から離れて休めば、やがて体は回復すると考えていたようです。
しかし、彼の病状は、さらに悪化していきました。
手の皮膚は、熱湯でひどいやけどを負ったような状態になっていたといいます。
脚から採取した皮膚を左手に移植する手術が何度も行われましたが、病変を治すことはできませんでした。
やがて左腕にがんが認められ、ダリーは肩のすぐ下から腕を切断することになります。
その数カ月後には右手にも同じような症状が現れ、4本の指が切断されました。
さらに1903年には右腕も切断されましたが、それでも病気の進行は止まりませんでした。
働けなくなったダリーには、妻と2人の息子がいました。
エジソンは彼を雇用名簿に残し、生きている間は給与を支払い続けたとされています。
同時にエジソンは、自身も眼に異常を感じていたことから、X線の研究を中止しました。
エジソンは後に「X線の話はするな。私はあれが怖い」と語っています。
自分は比較的弱いX線管を使っていた一方で、ダリーはより強力な管を使って実験していたため、被害が大きくなったとも説明しました。
1904年10月、クラレンス・ダリーは39歳で亡くなりました。
死因については、長年のX線被曝によって生じた慢性的な放射線障害を経て進行した、転移性がんだったとされています。
そのためダリーは、X線への職業的な被曝によって死亡した世界初の人物と考えられています。
ただし、ダリーの死だけが、現在の放射線防護制度を直接生み出したわけではありません。
同じ時代には、多くの医師、技術者、研究者が手の炎症や潰瘍、脱毛、白内障、がんなどに苦しんでいました。
こうした症例の蓄積に加え、放射線量を測る技術や人体への影響に関する研究が進んだことで、遮蔽、照射時間の短縮、線量管理といった考え方が徐々に発達していきました。
国際的な放射線防護組織が設立されたのは1928年であり、ダリーの死から20年以上後のことです。
現在、医療現場では必要な範囲にだけX線を照射し、患者と作業者の被曝を可能なかぎり少なくする対策が取られています。
こうした安全対策は、ダリーを含む初期の研究者たちが負った被害と、その後に積み重ねられた数多くの研究から築かれたものです。
X線は、人間の目では見えない体内を映し出し、医学を大きく前進させました。
しかし、目に見えない光線は、その危険性もまた人々の目から隠していました。
クラレンス・ダリーは、X線の有用性を証明した開発者の1人であると同時に、その恐ろしさを最初期に世界へ示した人物でもあります。
彼の悲劇は、未知の技術に挑むときには、可能性だけでなく、まだ発見されていない危険にも目を向けなければならないことを伝えています。

































