探検家と地元民の行き違いから「マチュ・ピチュ」になった?
今でこそ有名なこの遺跡が、世界に知れ渡るきっかけとなったのは、1911年7月24日のこと。
アメリカの歴史家・探検家であるハイラム・ビンガム(Hiram Bingham)が、インカ帝国時代の道を探索していたとき、山の頂上にある遺跡を発見します。
当時の時点で、この遺跡は地元民にもあまり知られておらず、代わりに、遺跡の両脇にたたずむ2つの山の方が有名だったという。
1つは、遺跡のすぐ背後にある小さくて険しい山で、これを「ワイナ・ピチュ(Huayna Picchu)」と呼んでいました。
現地のケチュア語で「若い峰(Young Peak)」を意味します。
もう1つが、南側にある大きくて傾斜のある山で、こちらが「マチュ・ピチュ(Machu Picchu)」と呼ばれていました。
「老いた峰(Old Peak)」という意味です。
私たちのよく知る天空の遺跡「マチュ・ピチュ」はワイナ・ピチュの近くにあります。
しかし実は、マチュ・ピチュ側の山頂にも、ずっと規模は小さいですが遺跡がありました。
ですから本来なら、こちらを「マチュ・ピチュ」と呼ぶべきだったはずです。
実際、ビンガムが探検に出る前に情報収集をしていた際、近くの町のリーダーであるアドルフォ・ケベド(Adolfo Quevedo)は、ワイナ・ピチュ山の遺跡を指して、「ワイナ・ピチュ」と呼んでいたことが日誌に記されています。
ところが、このワイナ・ピチュの遺跡の近くで、案内役を頼んだ地元農夫のメルチョール・アルテアガ(Melchor Arteaga)に名前を尋ねて日誌に書いてもらったところ、彼は遺跡の名前を「マチョ・ピショ(Macho Pischo)」と書いたのです。
ビンガムによると、「Pischo」という言葉は音では「ペッチュ(pecchu)」と発音しているように聞こえたため、彼はこれを「マチュ・ピチュ(Machu Picchu)」であると理解します。
これを機にビンガムは、ワイナ・ピチュ山側の遺跡を「マチュ・ピチュ」と呼ぶことにしたのです。
しかしこの地元農夫は、ビンガムの指した遺跡を勘違いし、マチュ・ピチュ山にある方を聞かれたと思ったのかもしれません。
本論文の著者は「フィールドノートと手紙から、ビンガムは遺跡をマチュ・ピチュと命名する際に、アルテアガが提供した情報に従っていたようだ 」と述べています。
古文書に「マチュ・ピチュ」は出てこない
それ以来、この名前が定着するようになりましたが、1990年に、アンデス研究家のジョン・ロウ(John Rowe)が、古文書を用いて「マチュ・ピチュは誤称である」と初めて主張します。
ロウは、16世紀のスペイン植民地から見つかった手紙や文書では、この遺跡が「ピチュ」として知られる古代インカの町として言及されていることを指摘。
さらに、「ワイナ・ピチュ」という記述も確認されましたが、「マチュ・ピチュ」の名称は、まったく出て来なかったというのです。
それから、ビンガム以前に、別の探検家が作成した1904年の地図帳には「ワイナ・ピチュ」という古代インカの町が記載されています。
このことから、今日私たちが「マチュ・ピチュ」と呼んでいる遺跡の正しい名前は、「ピチュ」あるいは「ワイナ・ピチュ」の可能性が高いのです。
これに対し、専門家の間では、賛成と反対の意見で大きくわかれています。
しかし、たとえ「マチュ・ピチュ」が間違いだったとしても、耳に残る響きや音の収まりも心地よいので、結果的によかったのかもしれません。
もしかしたら、ビンガムも「マチュ・ピチュの方が聞こえがいい」と思い、あえてこちらの名称を選んだ… というのは考えすぎでしょうか。
遺跡周辺の地図情報を追加しました。