王家の墓は「西が質素で、東が豪華」
イギリスは、5世紀初めまで古代ローマ帝国の支配下にありました。
ローマ帝国による支配は、クラウディウス帝の侵攻を受けた西暦43年から、帝国内の反乱やゲルマン民族の侵略を機に、ローマ軍が呼び戻された西暦410年頃まで続いています。
その後の5〜7世紀にかけては、ローマの置き土産たる「キリスト教」の伝統を継承しようとしたイギリス人が、おもに今日のイングランド南西部やウェールズを中心とした、イギリスの西側を統治しました。
同じころ、ヨーロッパ北部に起源を持つ異教徒の「アングロ・サクソン人」がイギリスの東側に侵入し、定住するようになります。
キリスト教とは無縁だった彼らの埋葬はとても豪華なもので、精巧かつ華麗な副葬品とともに埋葬されました。
この時代のアングロ・サクソンの支配者の墓は、少なくとも9人分は見つかっています。
一方で、西側にも多くのイギリス王が存在したことがわかっていますが、彼らの墓はほぼ見つかっていません。
最大の理由は、イギリス王の墓が石碑や副葬品のない質素なもので、しかも他のキリスト教徒の墓とならべて埋葬されたことです。
これについて、ダーク氏は「キリスト教の伝統を汲むイギリス王家が、豪華な埋葬を異教徒の習慣とみなしたため」と指摘します。
つまり、アーサー王時代の王家の墓は地味すぎて平民を判別できず、なかなか研究が進んでいないのです。
それでもイギリス王家の墓には「柵や溝で囲まれたり、土の塚で覆われたりと、わずかに普通民と異なる特徴がある」という。
ダーク氏は、その点も踏まえて、謎に包まれたイギリス王家の墓を探索しました。