開戦から38分で終戦
1896年8月27日午前9時2分、港に集結していたイギリス艦隊は、王宮に向けて砲撃を開始しました。
イギリス軍は、巡洋艦3隻、砲艦2隻、海兵隊と水兵計150名、それにザンジバル人部隊が約900名。
それに対し、ハリド率いる王宮には、親衛隊と数百名の召使いや奴隷、それに市民を合わせて、約2800名がいました。
ハリド側は、数門の大砲と機関銃を用意し、イギリス艦隊に照準を合わせていたものの、イギリス軍の最初の砲撃により、王宮が火事に見舞われ、大砲がまったく使えなくなったのです。
海では小規模の海戦も勃発しましたが、イギリス艦隊の力は圧倒的で、ザンジバルの王室ヨット「グラスゴー」と小船2隻を一瞬で沈めています。
イギリス軍は、約500発の砲弾と約4100発の機関銃、約1000発のライフル銃を撃ち込んで、ザンジバル軍を壊滅させました。
午前9時40分に王宮の旗が撃ち落とされ、戦争は終結します。
わずか38分の出来事でした。
ハリドとザンジバルのその後
38分間の戦いの中で、イギリス軍は水兵1名が負傷したのみでしたが、ハリド側には約500名の死傷者が出ています。
その大部分は、王宮を飲み込んだ火災によるものだったといいます。
イギリス軍はただちに王宮を占領し、その日の午後までに親イギリス派のハムド・ビン・ムハメドを新たなスルタンに据えました。
こうしてザンジバルは、イギリスの完全な傀儡政権となったのです。
一方のハリドは、ドイツ領事館へ避難し、保護を受けました。
イギリス側はハリドの引き渡しを要求したものの、ドイツ領事は、両国の間で結ばれている犯罪人引き渡しの条約が「政治犯を除外していた」ことから、これを拒否。
その代わり、「ハリドをザンジバルの地に踏み入れさせない」ことで合意しました。
結局、ハリドはドイツ領東アフリカ(今日のタンザニア)へ移送され、ザンジバルを後にしています。
その後、ハリドは1916年の第一次大戦中にイギリス軍に逮捕され、セントヘレナ島に流刑。それから、東アフリカへ戻ることを許された後、1927年に、ケニアのモンバサで死去しました。
彼が戦った「史上最短の戦争」は、主権国家としてのザンジバルの終わりと、イギリス支配下時代の始まりとして、歴史の1ページに刻まれています。