史上最短の戦争が起こるまで
イギリス・ザンジバル戦争は、その名の通り、イギリスとザンジバルとの間で発生した軍事衝突です。
ザンジバルは、アフリカ東海岸に浮かぶ諸島であり、現在は、対岸にあるアフリカ本土のタンザニアの一部となっています。
1698年に、ザンジバルを占有していたポルトガルの植民者を追い出し、中東オマーンのスルタン(イスラームにおける君主の称号)の支配下に入りました。
その後、1858年にオマーンから独立宣言し、当時アフリカ植民の先頭に立っていたイギリスの承認を受けています。
それ以降のスルタン達は、ザンジバル・タウン(諸島の一つであるウングシャ島の西岸)に首都と政庁を置き、海岸に宮殿を建てました。
イギリスは1886年にザンジバルの主権とスルタンの地位を認め、友好的な関係を築いています。
しかしそこに割り込んできたのが、当時力を増しつつあったドイツです。
ドイツは東アフリカの植民に関心を持ち、イギリスとの間で交易権や領土の支配権を争うようになりました。
諸々の争いはあったものの、1890年にイギリスとドイツは、東アフリカにおける権益地域の境界線を決める条約を締結(ヘルゴランド=ザンジバル条約)。
ドイツは、ザンジバルにおける権益をイギリスに譲渡しました。これ以降、イギリスの影響力は高まり、ザンジバルにおける奴隷取引の廃止を声高に訴えるようになります。
イギリスとザンジバルの友好関係が崩れた日
1893年、ザンジバルのスルタンに、親イギリス派のハマド・ビン・スワイニーが就きます。
ハマドはイギリスとの親密な関係を重視しますが、国民の中には、イギリスの支配拡大や貴重な奴隷取引の廃止に反発する者も多くいました。
そして、イギリスとザンジバルの友好関係が崩れる事態が起こります。
1896年8月25日に、親イギリス派のハマドが突然死去したのです。
イギリス当局は、すぐさま自国に好都合な人物をスルタンに据えようとしていました。
ところが、反イギリス派のハリド・ビン・バルガシュ(当時29歳)が、イギリスの了解を得ずに、スルタンの座に就いたのです。
イギリスとの条約によれば、スルタンの即位はイギリス領事が認めた人物でなければなりません。
しかし、ハリドはその約束を完全に無視してしまったのです。
イギリスはこれを「あるまじき事」と非難し、ハリドに対して即座に軍を解散し王宮を去るよう命じました。
ところが、ハリドはこの通達も無視し、自分がスルタンであることを宣言。
約2800人の軍隊を集結させ、王宮に立てこもります。
ザンジバル・タウンに不穏な空気が漂い始めました。
26日午後、すべての商船がザンジバル港から去り、イギリス人の女性や子供も船に乗ってザンジバルから避難します。
その夜について、イギリス領事はこう書き残しています。
「ザンジバルを包む静けさにはぞっとした。いつもは太鼓を叩く音や赤ん坊の泣き声が聞こえるのに、その夜は物音一つしなかった」
そして、ついにその時がやって来ます。