「領土の巨大化」は無視できない要因
ローマ帝国は、支配者同士の対立や国境を脅かす異民族など、多面的な問題に直面していましたが、やはり無視できないのが「領土の大きさ」です。
その最盛期には、ヨーロッパの大部分を中心に、北アフリカや西アジアの一部まで版図を広げていました。
英キングス・カレッジ・ロンドン (KCL)の歴史学者、ピーター・ヘザー(Peter Heather)氏は「ローマ帝国は、ユーラシア大陸の西側において史上最大の国家でしたが、当時の移動手段のスピードを考えると、私たちが今日、地図上で見る以上の大きさが実感としてあったでしょう」と話します。
ローマ帝国は、ある意味で、自らの成功の犠牲者でした。
帝国の誕生以来、周辺のさまざまな地域や文化を取り込んで巨大化し、それにともなって、国境の輪郭も大きくなりました。
これは裏を返せば、侵入できる窓口が多くなることを意味します。
その結果、ゴート族をはじめ、さまざまな異民族による襲撃や国境侵犯が頻発し、対処が難しくなっていったのです。
まず、ローマ帝国の行き過ぎた巨大化が、分裂の一因になったことは確かでしょう。
「隣国の脅威」と「国民のコントロール」が分割統治を進めた
ヘザー氏は、この大きさの問題に加えて、「さらに2つの要因が重なっていた」と指摘します。
ひとつは、3世紀に隣国のペルシア帝国(今日のイラン辺り)が強大化し、それに対処すべく、ペルシアとの国境に近いところに皇帝を置かなければならなくなったこと。
もうひとつは、4世紀までに “ローマ人”の定義が変わり、今日のスコットランドからイラクに至るまで、多種多様な民族や地方エリートが”ローマ人”として含まれるようになったことです。
しかし、帝国の規模からすると、大半の”ローマ人”は、都市ローマそのものとほとんど、あるいは全く関係がありませんでした。
たとえば、東京が首都だからといって、北海道や沖縄の人まで”東京人”と呼ばれてもピンとこないでしょう。
ここでローマ帝国は、国民全員が「自分はローマ帝国人である」という”ナショナリズム”を統括することに失敗しています。
こうした、隣国の脅威に対する防衛や、出自や文化の違う国民を効率的にまとめる手段として、帝国の分割が効果的であると考えたのです。
それでは、ローマ帝国の東西分裂は、395年を境にピンポイントで実施されたのでしょうか?
それとも、それ以前から分裂の兆しはあったのでしょうか?