「呼吸器疾患」には強いが「自己免疫疾患」にかかりやすくなる
黒死病とは、ペスト菌(Yersinia pestis)によって生じる感染症であり、1346〜1353年にかけてヨーロッパ全土で猛威をふるいました。
”史上最も死者の多いパンデミック”として知られ、当時のヨーロッパ人口の最大60%が命を落としたと言われています。
一方で、感染症は人類の遺伝子を変異させる上で最も強い選択圧の一つです。
実際、その後に起きた黒死病の流行時では、14世紀のパンデミックよりも死亡率が大きく低下しています。
これはもちろん、医療の発達や衛生状態の改善のおかげでもありますが、人類がペスト菌に遺伝的に適応したためでもあるのです。
昨年の研究(Nature, 2022)では、14世紀の黒死病の発生前・発生中・発生後に亡くなったヨーロッパ人集団の遺骨から計516点のDNAサンプルを採取して解析しています。
すると、黒死病を生き延びた人には「ERAP2」という遺伝子が多く存在することが判明したのです。
実際、ERAP2を多く持っていた人は、そうでない人に比べて40〜50%も黒死病への生存率が高いという結果が出ています。
そこでブリストル大学の研究チームは今回、現代のヒト集団においても「ERAP2」が健康に何らかの影響を及ぼしているかを調べることにしました。
具体的には、「UKバイオバンク」「FinnGen」「GenOMICC」という3つの大規模データベースを活用し、それぞれに登録されている数十万人の遺伝子情報を調査。
ERAP2の存在と感染症および自己免疫疾患の発症リスク、両親の寿命との関連性を分析しました。
その結果、ERAP2遺伝子を多く持つ人は、新型コロナウイルス感染症のような呼吸器疾患のリスクが低いことが判明したのです。
これは黒死病を生き延びるのに役立った遺伝子が、今日のコロナパンデミックにおいて有利に働いていることを示唆します。
重篤な症状に陥った場合は非常に危険であることが知られている「COVID-19」ですが、現在この病気で重症化する人は非常に限定的です。
そのため多くの人は「COVID-19」を風邪と変わらないという認識で見ていますが、その裏には14世紀に黒死病で亡くなった大勢の人々の影響があるようです。
ただ、この遺伝子の影響はメリットのみではありませんでした。
驚くべきことに、ERAP2遺伝子を多く持つ人は自己免疫疾患の発症リスクが高くなっていたのです。
自己免疫疾患とは、免疫系が正常に機能しなくなることで、体が自分自身を攻撃してしまう病気を指し、関節リウマチや炎症性腸疾患、クローン病や1型糖尿病などが含まれます。
つまり、ERAP2遺伝子は「呼吸器疾患への防御力は高めてくれるが、自己免疫疾患にかかりやすくする」というトレードオフの状態にあったのです。
感染症の専門家で研究主任のファーガス・ハミルトン(Fergus Hamilton)氏は「そのメカニズムの解明にはさらなる調査が必要ですが、これは同じ遺伝子が異なる病気に対して正反対の影響を持つという”平衡選択(balancing selection)”と呼ばれる現象の好例となる」と話しています。
この知見は、治療法を開発する際にも重要です。
たとえば、クローン病を治療するためにERAP2を標的とした研究がすでに進められていますが、それを標的とすることで他の病気に悪影響を及ぼす可能性があるため、慎重を期す必要があるでしょう。