約2000年ぶりのヘブライ語母語者
やがて時代は下り18世紀に入ると、今度はヨーロッパでヘブライ語は大きな変化を経験しました。
この時代はヘブライ文学のルネサンス期にあたり、新しい近代小説や詩がヘブライ語で書かれるなどの動きがあったのです。
それ以前のユダヤ人はイディッシュ語などを日常生活で使っていましたが、この動きでは民族的なアイデンティティを守るために、日常生活でヘブライ語を復活させることを目指していたのです。
また1783年には最初のヘブライ語新聞「Ha-Ma’assef」が発行されました。
この時期の作家たちは、美しい聖書様式のヘブライ語を用いながらも、新しい語彙を導入していったのです。
しかしこの動きで復活できたのは文学言語としてのヘブライ語であり、話し言葉としてのヘブライ語はまだまだ復活できませんでした。
19世紀に入ると、ユダヤ人の知識人たちはヨーロッパ中で新しい政治的野心と民族主義の台頭を目撃し、シオニズム運動が始まりました。
シオニズムは、イスラエルへの帰還とユダヤ人国家の再建を目指しており、その一環としてヘブライ語を文化的な中心として復活させる重要性を認識していたのです。
その中で大きな役割を果たしたのが、エリエゼル・ベン・イェフダです。
彼は、日常生活でヘブライ語を使うことがイスラエルでのユダヤ人の独立した生活に不可欠であると信じ、ヘブライ語の文法や構文の発展を促進する言語委員会を設立しました。
このヘブライ語委員会はヘブライ語の統制機関として機能し続け、イスラエル建国後に設立されたヘブライ語アカデミーの前身となったのです。
また彼は自分の息子のベン・ツィオンを、生まれて数年間ヘブライ語のみで教育し、ヘブライ語を母語として話す人物として育てました。
さらにベン・イェフダは普及活動だけでなく、自らヘブライ語で教育をする小学校の教員を務めたりしており、そこで使われるヘブライ語で書かれた教科書の執筆にも携わっていました。
ベン・イェフダらの尽力もあり、現在ではイスラエルを中心にヘブライ語の話者の数は900万人にまで増加したのです。