時代が進むにつれてセレモニー化した切腹
このように切腹は名誉ある死として捉えられましたが、時代が進み戦に出たことのない武士が増えると、自ら腹を切る覚悟のある武士は減っていきました。
代わりに、置かれた短刀に手を伸ばし、介錯として首を断つ方法が一般的になったのです。
また短刀の前に恐怖心を感じて錯乱する武士もいたことから、短刀の代わりに木刀や扇子に置くこともありました。
そして、木刀や扇子を取る瞬間に、介錯として首が断たれたのです。
またそれさえも実行できずに怯える者には、「一服」と称し毒を渡して絶命する方法も存在し、そちらを選択する武士も少なからずいました。
戦国時代の武士たちは、戦場で死ぬことこそが誉と考えており、敵に捕らえられた際には切腹で自身の豪胆さを周囲に示しながら死ぬことが次いで誉高いと考えていたようです。
そのため戦国時代には、介錯人も用いず切腹したり、捌いた腹から臓物を引き出して見せる者もいたと伝えられていますが、そうした豪胆な人間は平和な時代が続くとともに減っていったのでしょう。
ただ、幕末になるとまた血の気の多い武士たちが増え、竜馬がゆくなどの小説でも有名な土佐藩士の武市半平太は、切腹を言い渡された際、その作法にこだわり非常に難しい切腹の作法である三文字割腹を行ったとされています。
これは腹を三度横に切り裂くという切腹法で、通常は耐えられずやり遂げる前に介錯を受けるため非常に難しい作法だったようです。しかし、武市はこれを成し遂げて自分の胆力を示して亡くなったと伝えられています。
現代の私たちには理解し難いことですが、畳の上で平穏な最後を遂げることは恥と考えていた武士たちにとっては、豪胆に自ら腹を切って人生の最後を飾る切腹の作法は、美しさと通ずる重要なものだったのです。