まるでイベントみたいに行われた公開処刑
中世から近代のイギリスでは公開処刑が行われていました。
その中でも有名なのがロンドン郊外にあったタイバーン処刑場であり、そこで多くの犯罪者が処刑されたのです。
なおこれ以前のイギリスでは死刑は集落ごとに慣習的な復讐の一環として行われており、タイバーン処刑場ができたことによって死刑執行は慣例的な復讐から刑事司法の一環へと変わっていったのです。
タイバーン処刑場では主に政治的および宗教的犯罪者が処刑されてしましたが、16世紀初頭からは処刑前に絞首台上で犯罪者が最後に言い残したことをいう機会が与えられるようになりました。
ここでは犯罪者が主に罪の告白と懺悔の言葉を述べ、それによって犯罪者の魂が救済されると信じられていたのです。
この演説はやがて一般化され、教誨師(受刑者に、悪を悔い正しい道を歩むように教えさとす人)によって事前に準備されるようになりました。
そして17世紀には国事犯だけでなく一般の重罪犯にも適用されるようになったのです。
フランスの哲学者のミシェル・フーコーはこの公開処刑について「見せしめということを狙った」「処罰の儀式における結果」と表現し、あえて残虐な刑を公開することで、「悪いことをするとこうなるのだ」という見せしめの効果があったのではないかと指摘しています。
やがて18世紀に入ると、絞首台での演説は次第に減少し、死を前にした態度が注目されるようになりました。
観衆は犯罪者の振る舞いに興味を持ち、彼らが立派に振舞えば喝采し、そうでなければブーイングが巻き起こったのです。
公開処刑は改悛の舞台から、犯罪者が死に向かって勇気を示す舞台へと変質し、世俗化した政治的儀式となりました。
18世紀における公開処刑は、例えばタイバーン処刑場では年に8回行われ、国民の休日となる「タイバーン・フェア」と呼ばれる出し物として行われました。
処刑前夜からは場所取りが行われ、一晩中パーティが繰り広げられたのです。
またタイバーンの住民は処刑を見物するために大きな観覧席を設置し、そこの席料をとって金儲けをしていました。
しかしある時この急ごしらえで作った観覧席がいきなり崩壊し、約100人が命を落とすという痛ましい事故が起こりました。
それでもこれを契機に処刑見物という風習が無くなることは無く、それ以降もロンドン市民の一般的な楽しみとして続きました。
公開処刑は国家行事ではあるものの、人々にとっては娯楽の一環となり、「殺人はなんといっても第一に、大衆娯楽だったのだ」とされました。