実はさらさら越えをしていなかった?
このように成政の北アルプス横断は浪漫に溢れており、「さらさら越え」として後世に伝えられています。
実際にこのルートはリスクがありながらも当時から行商人が頻繁に利用しており、また佐々家や徳川家の使者もこのルートを使っているのです。
このことから、当時の交通状況でも真冬にさらさら越えをすることは不可能ではなかったことが窺えます。
しかしできるからといって実際にやったとは必ずしも言えません。
というのも先述の通り成政は「浜松の家康に会って説得したい」という理由でさらさら越えに挑んでおり、登山家のように「そこに山があるから」という理由ではありません。
当然成政は自分が考える中で一番リスクの低いルートを使って浜松へ向かったと考えるのが妥当であり、それゆえ「成政はさらさら越えを行っていない」と主張する歴史学者もいるのです。
彼らの考えるルートは大きく分けて二つに分けることができ、一つは「飛騨(現在の岐阜県北部)を経由して信濃に入った(下図②)」というルートです。
当時の飛騨は成政の同盟者が支配しており、比較的安全に通行することができました。
また飛騨と信濃の境界も、北アルプスの一部ということもあって冬の峠越えは厳しいですが、集落が全くない中を進まなければならないさらさら越えよりはマシであり、先述した行商人もこちらのルートを使う場合も多く見られました。
もう一つは「越後(現在の新潟県)を経由して信濃(現在の長野県)に入った(上図③)」のルートです。
このルートは当時から主要街道として扱われており、現在でも高速道路や新幹線が通っているのはこのルートです。
その為地理的に考えればこのルートが最適解ですが、先述したように成政は当時越後を治めていた上杉氏とは対立しています。
そのこともあって成政が越後を通過することは困難に見えますが、この説では上杉氏家臣の中に内通者がおり、その力を借りて何とか越後国内を通過したと主張しています。
実現した可能性が高いという意味では②③のルートは確かに説得力があります。ただ多くの歴史的史料で「成政はザラ峠を越えて家康のもとへ向かった」と書かれており、成政はさらさら越えを行ったという説が証拠的には一番有力です。
しかし残っているのはやや正確性に問題を有する史料のみでしっかりとした史料がなく、また飛騨や越後を成政が通ることができたかもしれないという状況証拠が揃っていることもあり、成政がどのルートを使って家康のもとに行ったのかについては未だに定説が存在しません。
たとえ成政が飛騨ルートや越後ルートを使ったとしても、秀吉との戦争中に領土を空けるリスクを冒して家康のもとに行ったことに変わりありませんので、成政が勇敢な武将であることは間違いないでしょう。