抗がん剤で「まつ毛」が伸びる仕組みとは?
症例報告を行ったスペイン・フェロル総合大学病院(CHUF)の医師らによると、男性に見られたのは「長睫毛症(ちょうしょうもうしょう:Trichomegaly)」という症状だといいます。
長睫毛症とはその名の通り、まつ毛が異常に長く伸びてしまう疾患であり、一般的には長さが12ミリ以上になると長睫毛症と診断されます。
また同時に、毛の一本一本が太く濃くなってカールし始めるのも大きな特徴です。
長睫毛症は先天的な遺伝子疾患で生じますが、他にも、化学療法の副作用として稀に現れることが知られています。
男性患者はまさに、直腸がんの治療の一環として抗がん剤の投与を受けていました。
では、抗がん剤でまつ毛が異常に伸びてしまうメカニズムとはどういうものなのでしょう?
がんとは細胞増殖に関する遺伝情報にエラーが起きており、どんどん増殖していってしまうところに問題があります。
抗がん剤は、このがん細胞の増殖に関する遺伝子に作用してがんの増殖を抑制し、細胞死(アポトーシス)させることを目的にしています。
男性患者が服用していたのは「パニツムマブ(panitumumab)」という薬剤です。
この薬は、がんの腫瘍細胞にある「上皮成長因子受容体(Epidermal Growth Factor Receptor:EGFR)」を標的とします。
EGFRとは、細胞の成長や増殖に関わる上受容体のことで、この働きを阻害することで、がん細胞の増殖や転移を抑制し、細胞死を促します。
ところが問題なのは、EGFRが悪性の腫瘍細胞だけでなく、健康な皮膚の外層や毛包に見られる細胞などにも存在することです。
そしてパニツムマブが健康なEGFRの働きを阻害すると、正常な発毛サイクルが停止し、毛髪が異常成長してしまうことが先行研究から判明しています。
医師らは、これが原因となって男性患者の長睫毛症が引き起こされ、まつ毛が異常に伸びてしまったのだろうと説明しました。
2020年にも、53歳の女性患者が抗がん剤治療のためにパニツムマブを服用した結果、男性と同じ長睫毛症を発症したことが報告されています。
またEGFRは頭髪を生やす上皮細胞にも存在しますが、パニツムマブによる副作用は主にまつ毛でのみに見られます。
これは頭髪に比べて、まつ毛の成長サイクルの方がずっと短いせいで、薬の副作用を生じやすいためではないかと考えられています。
しかしながら、長睫毛症は患者の健康にとって害悪になることはほとんどありません。
同大学病院のローラ・パズ(Laura Paz)医師も「通常は治療開始から数カ月以内に発症して、抗がん剤の服用を中止すると自然に消失する」と述べています。
ただし稀に、まつ毛が間違った方向、つまり眼球の方に向かって異常成長するケースがあります。
これは「睫毛乱生症(しょうもうらんせいしょう:Trichiasis)」として知られており、まつ毛が眼球を直接的に傷つけることで痒みや異物感、あるいは眼病や視力障害を引き起こす恐れがあります。
また深刻な場合は失明にいたる恐れもある危険な疾患です。
幸いなことに、今回の男性患者にはその兆候は見られず、まつ毛を処理するための安全なトリミングの指示を受けたのみで、健康への影響はありませんでした。
しかし抗がん剤治療には、私たちが知らない様々な副作用があるようです。