城攻めでも活躍した金鉱労働者、技術革新により鉱山開発が進んだ戦国時代
戦国の世を彩る金山の営みは、何とも興味深い物語です。
初めは河川の砂金採取から始まった金銀採掘も、次第に山岳地帯へと足を伸ばし、山金の露天掘りや鉱脈を掘り進む「鑓(やり)追い掘り」という技術へと進化しました。
この金掘りの最前線に立ったのは「金掘衆」や「金山衆」と呼ばれる者たち。
彼らの土木技術は高く評価され、時には戦場での城攻めにまで借り出されるほどでした。
たとえば、信玄が駿河国(現在の静岡県中部)を手に入れるために行った深沢城(現在の静岡県御殿場市)の石垣崩しや遠江(現在の静岡県西部)・三河(現在の愛知県東部)を平定する遠征で行った野田城(現在の愛知県新城市)の水井戸の水の手断ちなど、彼らの技は城攻めの名場面をいくつも生んだのです。
金山の経営はと言えば、領主が直轄する例は少なく、山主や山先がその所有者となるのが通例でした。
上杉謙信は越後や佐渡の諸鉱山から上納金を受け取り、武田信玄も甲斐や信濃、駿河の金山から同様の収益を得ていたのです。
しかし、例外的に信玄は他国の津具鉱山(現在の愛知県北設楽郡設楽町)に奉行を送り込み、稼業を直轄した例もあります。
技術の革新もまた、この時代の金山を輝かせました。
唐から伝わった鉛灰吹法という冶金術は、石見銀山を皮切りに日本各地へ広がり、鉱山開発を一段と発展させたのです。
炭火とふいごで鉛を解かし、金銀を分離するこの技法は、骨灰を使って鉛を蒸発させる二段階の手法を伴い、金銀塊を精錬する画期的な技術でした。
このようにして、戦国時代の金山は技術革新と人々の情熱が織り成すドラマの場となり、山々は煌めき、歴史に刻まれたのです。
まさに、土と炎が創り出す戦国の黄金劇場といえるでしょう。